大林軒の天地の余事

大林憲司のブログです。歴史とかについて書いていきたいと思います。

「福岡藩元和初年度分限帳と黒田家の危機」

長政公御代分限帳


※このブログは2023年11月25日に福岡地方史研究会例会の発表したレジュメを転載したものです。発表の時に説明した部分などは書いていませんのでわかりにくい部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。

 

 分限帳は藩に仕えている武士の名前と禄高を記したもの。今回の発表会では福岡県立図書館郷土資料室にある『長政公御代分限帳』を取り上げ、元和初年(1615年)分限帳の異本であることを明らかにする。またその分限帳の成立の過程で起こった「大坂の陣」で黒田家が迎えた危機とその危機からの脱出についても考察する。

1.福岡県立図書館郷土資料室にあった「長政公御代分限帳」

 郷土資料室で「長政公御代慶長初年分限帳」(K283 5 ナ)を見ていた時、後半に載っている『長政公御代分限帳』(当発表で取り上げる分限帳)の中に慶長9(1604)年に黒田家に召し抱えられた八木平左衛門、そして慶長11年に黒田家を退去した後藤隠岐(後藤又兵衛)の名前を発見した。これが正しいのであれば今まで知られていなかった慶長10年の分限帳だということになる。『長政公御代分限帳』の特徴については以下の通りである。なお『長政公御代分限帳』の名称が少し長いので『御代分限帳』と呼称する。
・『御代分限帳』の最後には「寛政四壬子年閏二月日」(※寛政四年は1792年)との記述があり最終的な成立の年代を表している。
・『御代分限帳』は明らかに二つの異なる筆跡で書かれており読みやすい筆跡は最後に書かれている年号と同じ筆跡で明らかに後で書き込まれたものである。
・形としては古い分限帳に後から書き込みを加えたもので、他の分限帳にもよくあるものとなっている。
・新しい書き込みについて検討すると実は間違いが多い。例を上げると「毛利市郎兵衛」の所に「左近」との書き込みがあるが、毛利市郎兵衛は毛利但馬(母里太兵衛)の娘婿で、毛利左近は毛利但馬の次男であり、明らかに別人である。他にもいくつか間違いがあり新しい書き込みはあまり信用できない。そして「後藤隠岐」は新しい書き込みの人名だ。
・少なくとも古い書き込みの中に慶長17年に黒田家に召し抱えられた「竹中主膳(竹中半兵衛の孫)」の名前があり、慶長17年以降に編集されたものであることは間違いない。
・新しい書き込みを無視して人名の比較をしたところ、実はこの『御代分限帳』は「福岡藩分限帳集成」(海鳥社)に収録の『元和分限帳』とほぼ同じものであることが判明した。従って『御代分限帳』は今まで知られていなかった新たな慶長期の分限帳ではなく『元和分限帳』の異本だと断定してよい。
・ただ『御代分限帳』の中に「岡本七太夫組 百六十石 中牟田右京」の名前があるが『元和分限帳』にはその名前がなく、『元和分限帳』よりも『御代分限帳』の方が古い史料に基づいているらしい。
・ただし、『御代分限帳』は本の綴じ方を間違っているようで、吉田壱岐組の人名が分断されている。新しく書き込みをした編集者もそれに気づいていたようで「い」「ろ」などの記号を書き込んでページ飛びへの注意を促している。

2.他の元和初年度分限帳との比較研究
 今まで活字化されている元和初年度分限帳は他に「黒田三藩分限帳」の『元和初年人数付』の(一)(二)がある。『元和分限帳』および『御代分限帳』とはほぼ同じだが、ただ一か所「毛利但馬」の部分が「毛利左近」となっている。毛利但馬は「元和元年六月六日」(正確に言えば「慶長20年6月6日」)に亡くなっているため、『元和分限帳』および『御代分限帳』のグループは毛利但馬が亡くなる前の慶長20年6月6日以前の成立、『元和初年人数付』(一)(二)はそれより後の成立ということになる。おそらく『元和分限帳』および『御代分限帳』の元となった分限帳は毛利但馬が亡くなる直前に完成したが、黒田家へ提出する前に毛利但馬が亡くなり、急いでその部分だけを修正したものが『元和初年人数付』になったのだろう。
 『元和分限帳』の最後には「千弐百五十四石 明石道斎(※明石全登)家来」という記述があるが、『御代分限帳』および『元和初年人数付』には存在せず、当時の状況を考えても『元和分限帳』の編集者が間違って慶長期の史料を書き加えてしまったのだろう。

3.『御代分限帳』の成立年代
 元和初年度分限帳の中で古いものだと推測される『御代分限帳』の成立年代がわかれば元和初年度分限帳の成立の背景が推測できることになる。
 竹中主膳の名前から慶長17年以降の成立であることは確かだが、もう少し年代を狭められるよう調べてみた。黒田官兵衛の弟の家系である黒田一門中では黒田利高の息子である黒田伯耆(政成)の名前はあるが、黒田直之(図書)の家系の名前は見られない。黒田直之は慶長14年、子供の黒田直基は慶長16年に亡くなっており、その家族はキリスト教への弾圧を嫌って黒田家を退去している。黒田官兵衛のもう一人の弟・黒田利則(養心)の家系に関しては「千八百石 黒田市兵衛」の名前だけが見える。黒田市兵衛(正興)は黒田利則の次男。黒田利則は慶長17年3月5日に、長男の黒田正喜は慶長18年8月2日に亡くなっている(「増益家臣伝」による。なお、黒田市兵衛は寛文3(1663)年閏5月26日没)。
 従って『御代分限帳』は、黒田正喜(修理)が亡くなった慶長18年8月2日以降、毛利但馬が没した慶長20年6月6日以前ということになる。そして『元和初年人数付』から判断して毛利但馬が没する直前、慶長20年5月くらいの成立ではないかと推測される。

4.元和初年度分限帳編纂の契機

 『御代分限帳』『元和分限帳』などの元和初年度分限帳の編纂が開始された契機であるが、おそらく慶長18年初頭に黒田家が徳川家と深い関係性を構築できたからではないかと考えている。
 慶長17年12月18日に駿府城黒田長政と萬徳(黒田忠之)が徳川家康に拝謁し、萬徳は家康から「右衛門佐」の名乗りを与えられた。慶長18年正月21日には江戸城において忠之(右衛門佐)が将軍徳川秀忠と対面し秀忠から一字をもらい「忠長」の名前(後に忠政また忠之と改めた)と「御家號」つまり「松平」の姓を許された(いずれも『徳川実記』による)。つまり黒田家は徳川家から認められ、ある意味対立していた豊前の細川家よりも徳川家との深い関係を築くことに成功した。この成功体験が元で分限帳の編集が始まったのではないかと思われる。ただし、慶長18年8月2日に黒田一門の黒田正喜が亡くなって黒田正喜家が断絶したため、その後の状況で分限帳は編集されたのだろう。

5.黒田家の危機

 徳川家と強い関係を構築することに成功した黒田家だったが、意外な所から危機が生じた。慶長18年4月25日に大久保長安が亡くなった。大久保長安は所務奉行・佐渡奉行・伊豆奉行などの職務に就き、一時は絶大な権勢を誇っていた。大久保長安が亡くなった後、一族は不正蓄財の罪に問われ、慶長18年7月9日には大久保長安の子供たちが切腹となり、大久保長安家は断絶となった。大久保長安一族が罰せられたことで、彼と関係の深かった大久保忠隣にも影響が及んでいく(大久保長安の「大久保」は大久保忠隣から与えられた姓)。
 大久保忠隣は徳川家康を支えた重臣大久保忠世の息子で、大久保忠世亡きあとは大久保家を継ぎ、本多正信・正純親子と共に幕政を取り仕切った。実は黒田家はこの大久保忠隣と深い関係を築くことにより、徳川家との関係を強めていった。黒田忠之は大久保忠隣の孫娘(後には養女)を許嫁としており黒田家と大久保忠隣は姻戚関係になる予定だった。
 しかし、大久保長安事件を契機として大久保忠隣は次第に徳川家から疎まれるようになっていく。慶長18年12月19日に大久保忠隣は京都のキリシタンの取り締まりのために急に京都に派遣されることになった。そして慶長19年正月19日、突如として大久保忠隣は改易されてしまう。
 当然、大久保忠隣と深い関係を築いていた黒田家にも影響は及び、黒田家は徳川家から睨まれる存在になっていたようだ。「徳川実記」によれば慶長19年正月20日徳川家康江戸城から駿府城に戻ろうとし、諸大名が家康への挨拶にやってきたが家康は会おうとしなかった。その中で細川越中守忠興と鍋島信濃守勝茂だけを特別に別々に呼んで対面している。言うまでもなくこの大名は黒田家に隣り合う大名である。大久保忠隣と親しかった黒田家を警戒して家康はこの二大名の忠誠を確かめたのかもしれない。
 慶長19年3月には、江戸城外壁の修築のため、黒田家を含む西日本の大名が江戸に呼び寄せられた。徳川家は大坂の豊臣家を攻撃するため、豊臣家に近い大名を江戸に貼り付けにして豊臣家と物理的に切り離す必要があった。黒田家は徳川家からの疑いを晴らすために石垣工事を必死になって行うしかなかった。福岡の麻生文書には麻生三左衛門に対して工事の遅れについて厳しい脅しの文句の並ぶ文書が残されている。
 それにも関わらず、慶長19年に大坂冬の陣が勃発すると、黒田長政福島正則加藤嘉明と共に従軍することを許されず江戸に残された。この時点で黒田家は徳川家から不審の念を持たれ危機を迎えていた。
 これに対して黒田長政は国元で病気療養中の黒田忠之に書状を送り、「死んでもいいから軍勢を率いて上方に上り家康に面会せよ」と厳命した。黒田忠之は上方に上り、家康と面会(系譜上忠之は家康の孫)した。「黒田家譜」によると病身を押してやってきた忠之を見て家康は涙を流したとのことである。

6.大坂夏の陣の勝敗を左右した黒田長政

 大坂の冬の陣は講和がなったが、徳川側が強引に大坂城の堀を埋め立てたことで豊臣側が怒り、大坂で再び戦いが始まった(大坂夏の陣)。黒田忠之と家康の面会が功を奏したのか、黒田長政加藤嘉明と共に参陣を許された(福島正則は参陣を許されなかった)。しかし、疑いをかけられないため、わずか三十騎ほどの兵を連れての参陣となった。
 「黒田家譜」によれば「徳川秀忠の旗本衆の後ろ、徳川家康の旗本衆との間」に陣取り加藤嘉明と共に何もすることなく豊臣家の滅亡を見届けたと思われている(実際「黒田家譜」「吉田家伝録」では黒田長政大坂夏の陣における軍功は何も記されていない)。
 しかし、「鹿児島県史料 旧記雑録後編四」(文書番号 1236)に次のようなことが書かれている。
「加藤左馬殿 黒田筑前守殿両人 御所様御旗本へ無御座候ハバ、今度之軍御勝ニ罷成間敷候へ共、両人之手柄迄ニて勝ニ成候て、御前之御仕合無申事候」
 この文書は大坂夏の陣が終った直後に島津家の関係者が夏の陣の情報を国元に伝えたもので信頼性の高い文書である。その文書では「この戦いは加藤嘉明黒田長政の手柄で勝ったようなものだ」と最大限の評価をしている。何もしていない(むしろ何もできない)はずの黒田長政加藤嘉明が何をしたのだろうか。
 実は幕府の公式な歴史書である「武徳編年集成」に黒田長政加藤嘉明大坂夏の陣での行動について記されている。それによると「戦いが始まったので、徳川秀忠が前線に出ようとして進んでいたら、黒田長政加藤嘉明が下馬して徳川秀忠を出迎えた。二人は『自分たちは豊臣家に忠義を尽くしてきたので御不審の念はもっともなことですが、我らは徳川家に忠義を尽くして戦います』と言ったので、徳川秀忠は二人を連れて前線に向かった」というもので、特別に何かやったことは書かれていない。しかし、これは「徳川秀忠徳川家康の間にいた」とする黒田家側の史料と明らかに矛盾する。もし、徳川秀忠黒田長政と出会ったとすれば、徳川家康の陣へと向かって進んでいた場合だけである。
 つまり徳川秀忠は、真田信繁の猛攻で徳川家康の本陣の馬印が倒されたのを見て、それを救うべく本隊と共に徳川家康の救援に向かっている途中で黒田長政と出会ったものらしい。「武徳編年集成」によると黒田長政は「天王寺方面は危ない」と徳川秀忠に進言しているので、徳川秀忠を押しとどめ引き返させたのは黒田長政らしい。もし、この時、徳川秀忠本隊が引き返さなければ岡山口方面の前衛部隊は崩壊していたはずで、大坂夏の陣は徳川側の惨敗という結果に終っていた可能性が高い。つまり「両人之手柄迄ニて勝ニ成候て」は真実だったのだ。

7.そして元和初年度分限帳

 大坂の夏の陣の功績で黒田家と加藤家に対する徳川家の心情は劇的に改善された。黒田長政の娘が徳川家の有力男子(徳川家光という説もある)と結婚するという話が流れ、各地の大名はその情報の確認に追われた。加藤嘉明も後に大幅な加増(伊予松山20万石→会津43万5500石)を受けている。両家とも息子の代に家老との深刻な対立を引き起こし、お家断絶になってもおかしくなかったが、両家とも大名として明治まで存続した(ただし、加藤家は水口藩2万石)。
 危機が続き「分限帳どころではない」黒田家だったが、大坂夏の陣が終わって危機を脱したことで編集していた分限帳を提出することになったと思われる。これが「元和初年度分限帳」なのだろう。しかし、黒田長政が福岡に帰ってくる(慶長20年7月)前に有力家臣である毛利但馬が亡くなったたため、毛利家の相続を待ってその部分だけ書き換えたものが『元和初年人数付』だと考えられる。元和初年度分限帳成立の背景には、危機とそれを乗り越えた黒田家の歴史が横たわっていたのである。