大林軒の天地の余事

大林憲司のブログです。歴史とかについて書いていきたいと思います。

福岡藩慶長期分限帳の成立年代について

 これは2018年12月に私が福岡地方史研究会で発表したものに、それからの知見を付け加えて再構成をしたものです。福岡県の近世初期研究の一助になれば幸いです。

 

1. 福岡藩の慶長期分限帳とは?
 分限帳といえば「江戸時代に大名家家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面」(Wikipedia)であるが、福岡に居城を構えた黒田家にも当然ながら分限帳は存在し、『黒田三藩分限帳』(著・福岡地方史談話会)『福岡藩分限帳集成』(福岡地方史研究会編 海鳥社)のように活字化されたものもあり、福岡県近世史の研究に大いに役立っている。
 慶長期は慶長元年から慶長20年、つまりグレゴリオ暦でいう1596年から1615年までの期間を指す。慶長5年(1600年)9月15日に天下分け目の「関ケ原の戦い」が起こったため、歴史の大きな転換点ともなった時期でもある。
 福岡藩の慶長期分限帳だが、『黒田三藩分限帳』に「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」と「慶長年中士中寺社知行書附」の2本、『福岡藩分限帳集成』に「慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳」の1本、合計3本が活字化されている。活字化されてはいないが著名なものとしては「慶長六年筑前國中諸役人知行高目録」(原本は筑紫女学園蔵。福岡県立図書館の郷土資料室に紙焼版あり)がある。今回は主にこの4本の福岡藩慶長期分限帳について考察する。
 ただし、それぞれの正式名称が長いため、今回の考察では『黒田三藩分限帳』収録の「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」を「三藩分限帳A」、『黒田三藩分限帳』収録の「慶長年中士中寺社知行書附」を「三藩分限帳B」、『福岡藩分限帳集成』収録の「慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳」を「集成分限帳」、筑紫女学園蔵の「慶長六年筑前國中諸役人知行高目録」を「筑女分限帳」と呼称する。

 

2.福岡藩慶長期分限帳は題名にある年号と実際の成立年が違う

「三藩分限帳A」の書題には「慶長七年・九年」、「集成分限帳」には「慶長六年」、「筑女分限帳」にも「慶長六年」という具体的な年号が入っている。そのため福岡藩慶長期分限帳を引用した論文で、その年に作られた分限帳だと判断して論じている例がかなりある。ただ、それは明らかな間違いである。
 これらの4本の分限帳にはすべて「萬(万)徳様衆」の言葉が書かれている。「萬徳様」は福岡藩2代藩主・黒田忠之の幼名で、「萬徳様衆」は黒田忠之の守役を命じられた福岡藩の武士たちのことである(福西道達・伊丹九郎右衛門・林五助・井上傳次の四名が萬徳様衆に任じられている)。
 黒田忠之が生まれたのは慶長7年11月9日なので、これらの分限帳はそれ以降に書かれたものであることだけは間違いない。もう少し厳密に言うと、生まれた子供の名前は御七夜で披露されるものなので、黒田忠之に「萬徳」と名前が付けられたのは慶長7年11月16日となる。おそらく「萬徳様衆」が決められたのも同日かそれ以降の数日間の間だろう。従ってこれら4本の分限帳の成立は慶長7年11月16日以降と判断してよい。
 一方、これらの分限帳の成立の下限だが、4本とも「後藤又兵衛」の名前がある。後藤又兵衛は黒田二十四騎の一人にも数えられる黒田家の重臣だが、初代藩主の黒田長政と折り合いが悪くなり、慶長11年に黒田家を退去した。後藤又兵衛が黒田家を退去した具体的な月日は不明とされている。だが、福岡市の常念寺に後藤又兵衛が黒田家を退去する時に空与上人に宛てた書状が残っているという(『福岡城天守閣と光雲神社』梓書院 著・荻野忠行)。その書状には慶長11年6月14日の日付があり、後藤又兵衛が黒田家を退去したのはその頃だと思われる。これらの分限帳に後藤又兵衛の名前があるということは、これらの分限帳は後藤又兵衛が黒田家を去る慶長11年6月14日以前に書かれたものと言うことになる。
 よって4本の分限帳の成立年代は、慶長7年11月16日から慶長11年6月14日の間だと考えられる。福岡藩慶長期分限帳を研究で引用される時はこのことを認識しておいていただければと思う。
 今回の記事はこの成立年代の幅をもう少し狭められないかと考察したものである。

 

3.「三藩分限帳A」は他の分限帳に先行するものか

 「三藩分限帳A」と、他の3本の分限帳(「三藩分限帳B」・「集成分限帳」・「筑女分限帳」)では大きな違いがある。それは一部の武士の石高と船手衆(福岡藩の水軍)の組織である。
 石高の違いに関しては『黒田三藩分限帳』に長野誠明治15年時の考察が載っている。長野誠福岡藩の学者だった人物でもあり、福岡藩の各家の文書の閲覧をすることができた立場の人間である。
 長野誠によると、慶長7年12月23日に福岡藩の一部の武士に対して大幅な加増が行われている(例を挙げると、家老の井上九郎右衛門が一万五千石から一万七千石に加増されている)。「三藩分限帳A」は慶長7年12月23日以前の禄高が記された武士とそれ以降の禄高が記された武士が混在しているようで、長野誠は慶長7年12月23日以前の禄高を記したものに12月23日以降の禄高を「書改しなるへし」と判断しているようだ。
 私は「萬徳」の名前が付けられた慶長7年11月16日から加増のあった慶長7年12月23日まで一か月ほどしか時間がないため、「三藩分限帳Aの編集グループは慶長7年11月16日の段階での禄高で調査記録を進めていたが、調査の途中の慶長7年12月23日に加増が行われたため、それ以降の調査では12月23日以降の禄高を記録した」と考えている。つまり「編集の途中で大幅な加増が行われたため新旧の禄高が混在し、そのまま訂正することなく一冊の分限帳としてまとめてしまった」というのが私の考えだ。
 さすがに慶長7年12月23日の直後に完成することができたとは思えないので、「三藩分限帳A」はやはり慶長8年に入ってからの完成ではないだろうか。しかも古い禄高を修正していないところを見ると急いでまとめる必要があったと思われ、「三藩分限帳A」は慶長8年初頭頃の成立ではないかと推測する。
 だが、これでは正規の行政文書としては機能しない。たとえば禄高に応じて軍役を決める場合でも、この分限帳に基づけば当然不公平なものになってしまう。従って「三藩分限帳A」は実際には使用されなかったプロトタイプと呼ぶべきものだろう。ただ、「三藩分限帳A」が廃棄されずに写本が残ったことを考えると、黒田家が福岡の地に封じられてから初めて作られた「根本名簿」的なものであったことは推測できる。

 

4.船手衆組織の改編

 「三藩分限帳A」以外の3本の分限帳は慶長7年12月23日以降の石高を記載しており、「三藩分限帳B」「集成分限帳」「筑女分限帳」は「三藩分限帳A」より後の成立である。
 「三藩分限帳A」と3本の分限帳では石高の他に、前にも書いたように船手衆の組織改変がなされている。具体的には「三藩分限帳A」では船手衆のトップが2750石の三宅山太夫(若狭。黒田二十四騎の一人で若松城主)だったのに対し、3本の分限帳では馬杉喜右衛門が1000石から3490石に加増されて船手衆のトップになっている。それだけでなく、「三藩分限帳A」では船手衆の名前が35名載せられているが、「三藩分限帳B」では14名、「集成分限帳」「筑女分限帳」では13名に減少している(「三藩分限帳B」では能島衆の庄林七兵衛が一人多い)。
 分限帳から名前が消えた船手衆の石高を合計するとほぼ馬杉喜右衛門の増えた石高に相当することから、馬杉喜右衛門が単独で大幅な加増がされたわけではなく、「三藩分限帳A」にだけ名前の見える船手衆が馬杉喜右衛門の支配下に入ったと見るべきだろう。馬杉喜右衛門は「芦屋押」であることから、遠賀川を使って米を芦屋まで運ぶ水運業に人手が必要となり、配置転換が行われたのかもしれない。
 従って「三藩分限帳B」「集成分限帳」「筑女分限帳」は船手衆の組織改編が行われた後の成立であることは確かだが、その組織改編がいつ行われたのかは不明である(少なくとも『黒田家譜』にそのことを示す記述はない)。


5. 3本の分限帳は慶長8年6月の成立か

 船手衆の組織改編の時期がわからない以上、他に3本の分限帳の成立時期を決定する資料はないだろうか。実は「黒田家譜早鑑」という書物に成立年代のヒントがあった。
 「黒田家譜早鑑」は福岡藩無足組の武士・安見鼎臣弼の手になるもので、その中に「慶長八年六月 宗勝寺弐拾石六合御寺納」(日付は書かれていない)とある。宗勝寺は福岡市東区にあり、小早川隆景重臣である浦(乃美)宗勝が創建した寺院だ。境内には浦宗勝夫妻の墓が残されている。4本の慶長期分限帳の寺社禄高の部分にも「弐拾石 宗勝寺」とあり、「黒田家譜早鑑」の記述が正しいとすれば慶長期分限帳の成立年代の上限は「慶長8年6月」ということになる。
 なお「三藩分限帳A」にも「弐拾石 宗勝寺」とあり、それだと「三藩分限帳A」の成立を慶長8年初頭とした私の説は成り立たないことになってしまう。ただ、慶長期分限帳の社寺の部分は石高の多い順から少ない順へと社寺名が並べられているが、「三藩分限帳A」では「五石 武蔵寺」の次の最後の部分に「弐拾石 宗勝寺」とあるので、宗勝寺に関しては追記と見られる。「三藩分限帳A」は慶長8年初頭に作られ、慶長8年6月に宗勝寺の項目が追記されたと考えるべきだろう。

 では3本の分限帳の成立下限年代はいつなのだろうか。「元和年間の分限帳に名前があって慶長期分限帳に名前のない人物」が手がかりになると私は考えた。
 私は『福岡藩分限帳集成』に収録されている「元和分限帳」の一部次郎左衛門に注目した。一部次郎左衛門は「元和分限帳」よると吉田宮内組に所属し三百石の禄高を得ている。一部次郎左衛門の名前の横に「慶長八年六月廿日御判物アリ」との書き込みがある。一部次郎左衛門は慶長8年6月20日に三百石の禄を賜り、その知行御判物が書き込みをされた時期まで存在したことは確かだろう。一部次郎左衛門は慶長期分限帳には見られない名前で、従って慶長期分限帳は慶長8年6月20日より前に成立したことになる。
 だが、面倒なことに慶長期分限帳の船手衆に「一双次郎左衛門」という人物がおり、「一部次郎左衛門」と同一人物ではないかと思われている節がある。例を挙げると「集成分限帳」では一部次郎左衛門の横に「部ナリ」と書き込みがある。その書き込みは「集成分限帳」を自著の『致致雑抄』に収録した大塚一滴(江戸中期から後期にかけての福岡藩士。筑前二天一流の達人)によるものだと思われるが、少なくとも大塚一滴は「一双次郎左衛門は一部次郎左衛門の間違いだ」と考えているようだ。
 私自身も直接的な証拠はないものの様々な状況証拠から一双次郎左衛門は、生月島で平戸の松浦家に仕えていたがキリシタン弾圧が始まると松浦家を退去した一部正治(洗礼名・バルタザル)の変名ではないかと考えている。
 「一双次郎左衛門」と「一部次郎左衛門」が同一人物だとしたら「慶長期分限帳は慶長8年6月20日より前に成立した」説は成り立たないことになる。
 だが江戸時代初期までに黒田家に仕えた武士の名簿である『播州豊前筑前筮仕諸臣名簿』によれば、「一双次郎右衛門」の30人ほど後に「一部次郎左衛門時平」の名前があり、『播州豊前筑前筮仕諸臣名簿』を見る限りでは一双次郎右衛門と一部次郎左衛門は別人のようだ。『黒田三藩分限帳』収録の「元和人数付(二)」にも「一部次郎兵衛(次郎左衛門の誤りか)」の横に「時平 肥前人」とあり、一部次郎左衛門の諱は「時平」で「正治」ではない。つまり一部次郎左衛門は慶長期分限帳には載っていない人物で、やはり慶長期分限帳は一部次郎左衛門が三百石を得た慶長8年6月20日より前の成立ということになるだろう。

 

6. 結論と年代表記への推測

 以上考察から福岡藩の慶長期分限帳の成立年代をまとめてみる。
・「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」(「三藩分限帳A」)の原本は慶長8年初頭の成立。ただし、慶長7年12月23日以前と以後の禄高が混在しており、正式な分限帳としては使われていないと見られる。ただし、「根本名簿」としての意味合いはあり、破棄されずに残されたものであろう。
・「慶長年中士中寺社知行書附」(「三藩分限帳B」)、「慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳」(「集成分限帳」)、「慶長六年筑前國中諸役人知行高目録」(「筑女分限帳」)の3本の分限帳の原本は、慶長8年6月の20日より前の成立。この系統が正式な福岡藩の慶長期分限帳として使われたと考えられる。

 ただ、プロトタイプともいうべき「三藩分限帳A」の成立が慶長8年初頭で、他の3本の分限帳の成立が慶長8年6月であるならば結構時間がかかっているように思われる。その具体的な理由は不明だが「三藩分限帳A」に宗勝寺の追記があることからすれば宗勝寺に禄を与える決定を待って分限帳を完成させたことが原因の一つと考えられよう。

 なお、「集成分限帳」と「筑女分限帳」の書名に慶長六年の年号が入れられた理由だが、あるいは慶長8年6月に完成したことが原因かもしれない。原本のどこかに「慶長八年六月」と記されていたが、破損により「慶」「六」の文字だけ残され、それを見た写本の作者が「慶長六年の分限帳だ」と判断して書名を作成してしまった。これは完全に私の推測だが、意外とそんな理由で「慶長六年」の年号が入ったのかもしれない。