大林軒の天地の余事

大林憲司のブログです。歴史とかについて書いていきたいと思います。

節分恵方巻の話

初めてはてなブログに書いてみます。「節分の恵方巻」は以前のサイトに書いたものを、修正して再録したものです。

 

☆節分の恵方巻
 一月の終わりになると、スーパーなどで盛んに『節分の恵方巻』をPRしている。ご存知の通り、節分の日に切っていない長いままの太巻きをある方向に向かって食べるといいことがあるという風習である。
 私はこの風習について、かなりの情報を持っている部類に入るだろう。私の知っている情報を公開し、また私なりの考察を加え、世間の人々の役に少しでも立てばと思う次第である。

☆それは島根で出会った
 「節分の日に太巻きを食う習慣」というものを聞いたのは、私が島根大学に通っていた時代の節分の日だった。大阪出身の同じ研究室の友人が「大阪ではそういう風習がある。ぜひ、節分の日にやってみないか」と誘ってきたのである。
 当時の私はそれなりに民俗学に詳しいと自負していたが、この風習のことは全く聞いたことがなかった。おそらく大阪ローカルの風習だろうとは思ったが、なにやら面白そうなので研究室のそこら辺にいた人間を誘って「太巻きかじり会」を行うことになった。
 場所は大阪の友人の下宿部屋で、確か男ばかり四人ほどが集まっていたように思う。スーパーかどこかで切っていない太巻きを手に入れ、大阪の友人の話通りに太巻きを食うことにした。大阪の友人の話によると「恵方を向いて一言も喋らずに太巻きを食い尽くさねばならない」ということらしい。我々はその言葉に従い、四人が同じ方角を向いて太巻きを食い始めたのだが、どういうわけか笑いが漏れだした。
 想像してほしい。一つの部屋の中で男四人が同じ方を向いたまま無言でひたすら太巻きを食っているのである。怪しい、というよりはっきり言ってマヌケだーっ! 我々は無事に喋ることもなく太巻きを食べ終えたが、あれは私の一生の中でも『記憶に残るマヌケな光景』だったような気がする。

☆「恵方巻(節分まるかぶり)」とは一体?
 ここで恵方巻について私が知っていることを述べてみよう。「恵方巻(以前は節分まるかぶり寿司と呼んでいた)」とは、節分の日に『恵方』という方角を向いて長いままの太巻きを無言で食べ、厄払いと幸せを願う、大阪で始まったという風習である。
 私は江戸時代末期から明治にかけて大阪・船場で始まったという話を聞いたことがあるが、詳しいことは不明である(確実な時期は大正時代かららしい)。ただ、しばらく関西圏とその周辺にのみ留まっていた風習なのは確かであろう。
 「無言のまま太巻きを食う」という行動の意味についても詳しいことは不明である。ただし、私は「太巻きは鬼の鉄棒を意味し、鬼の鉄棒を食べてしまうことによって節分の厄払いとする」という話を聞いたことがある。あるいは大阪の人たちのシャレ心で始まった行事なのかもしれない。
 ちなみに「無言」の意味だが、神社の「無言参り」などに見られるように無言という行動に『神事』の意味を持たせたのだろう。ところで、仏教の陀羅尼(サンスクリットによる呪文)の中には「魔が入り込まないように一息で読んでしまわねばならない」というものが存在する。あるいは「鬼を調伏するためには鬼の鉄棒を意味する太巻きを一息で食わねばならない」という思想があり、それが物理的に不可能であるため代わりに「太巻きを食べ終わるまで喋らない」ということになったとも考えられる。

☆『恵方』とは?
 さて、ここで恵方について述べてみよう。恵方とはその年のラッキーな方角で、幸運を司ると言われる歳徳神が存在すると言われる。歳徳神は元々はその年の稲の実りと幸せを『常世の国』から人間にもたらす歳神だったが、陰陽道などの影響により年毎にある一定の方向に存在すると考えられるようになった。(干支、特に十干によって歳徳神の居場所が決定する。) 歳徳神のいる恵方は「明きの方」といわれ、この方角に向かって何かをするとすべてうまくいくと考えられた。昔の人々にとって『恵方』は非常に親しいものであり、「厄払いのため恵方に向かって太巻きを食べる」という大阪の人の発想もごく普通のことだっただろう。

☆なぜ太巻き寿司なのか?
 「厄払いのため太巻きを鬼の鉄棒に見立てた」という説を紹介したが、私は「寿司」であることに意味があったのではないかと考えている。旧暦の正月は節分および翌日の立春の前後にやってくる。そこで昔は立春を「神様の年越し」といい、その前日の節分は大晦日と同じ意味合いを持っていた。
 江戸では大晦日に今と同じく年越しそばを食べる風習があったが、その他の地方では「年取りの膳」と称して大晦日に豪勢な食事を取ることが多かった。その中には北陸のぶり寿司のように寿司を食べるところもあった。
 今でも寿司が特別の日に食べられる料理の意味合いがあるように、大阪の人たちは節分の日に寿司を食べることにより特別な意味をもたせようとしたのかもしれない。
 インターネットで検索したところ、関西の人の中には「太巻きを切らないのは、年越し蕎麦と同じく長いことに意味がある」と考えている人もいるようだ。
 おそらく私は、太陽暦が施行されて新暦の正月と節分が一ヶ月以上も遠くなった時期に、大阪の人たちが節分と大晦日が近かった昔を懐かしみ、また関東の年越し蕎麦に対抗して作り上げたものが「節分の恵方巻」ではないかと密かに考えている。もっともこの考えが正しいのかどうかは不明だが……

☆関西圏外への進出
 では、節分の恵方巻が関西圏以外、特に関東圏に進出した時期と契機は何だったのだろう? これに対して私は明確に答えることができる。それは「1990年代半ば、海苔の業者のキャンペーンにより一気に東京に広まった」ということだ。
 以前、私がバイトしていた所は太巻き細巻きと言った商品も売っていた。ある年(具体的な年度、失念)の一月、海苔の業者からお願いが書かれたチラシとポスターが店に回ってきた。それこそが、大阪で行われている節分のまるかぶり寿司(恵方巻)を東京でも広めようという、海苔業者のキャンペーンのお願いのチラシとポスターだったのである。
 その当時、そんな風習があることを知っていたのはバイト先の店の中で私ただ一人だった。私は「関東で流行るのかねー」と思っていたが、ポスターは店先に貼られた。確か「幸運の丸かぶり」とかいう文字と可愛い鬼のイラストが描かれていたように記憶する。ただ、その年の節分の太巻きの売り上げは大したことはなかった。
 しかし、どういうわけかそれから二年ほど経つとスーパーでも「節分の太巻き」が売られるようになり、気がついたら一月下旬から二月の節分にかけて普通の光景になっていたのである。

☆なぜ節分の恵方巻は定着したのか?
 いくら業者が頑張ってキャンペーンをやったところで、「サンジョルディの日」のようにどうしても定着しなかったものはある。では、どうして「節分の恵方巻」は定着したのだろう? それは豆まき行事の衰退と関連があるように思われる。
 昔の節分はどこの家でも「鬼は外ー、福は内ー」という声が聞こえていたものだ。だが、今では豆まきは有名な寺社の行事になってしまった。
 その理由だが、新正月と節分が一ヶ月も離れてから百年以上の月日が経ってしまい、節分が「季節の移り変わる特別の日」という感触が薄れてしまったことが一つの原因ではないだろうか。また豆まきは大声を出すことによって、近所との関係を持ってしまう行事でもある。近所づきあいの薄れた今となっては豆まきは遠慮される行事になりつつあるのかもしれない。
 節分の恵方巻は豆まきの衰退を補う形で、関東圏に入り込んだのではないだろうか。豆まきをしなくなっても人々が幸福を求める気持ちに代わりはない。部屋の中で静かに行うことのできる恵方巻は格好の招福行事だったのだ。こうして恵方巻は関東にも受け入れられていった。知り合いに話を聞いた結果、恵方巻の風習は、2002年には北九州地区に、2003年には北海道に上陸したと見られ、これでほぼ全国に広まったようである。(四国には知り合いがいなかったため、四国に広まった時期は不明。おそらく九州と同じくらいの2002年くらいか。)

 以上、恵方巻に関する私の知っている情報と考察を述べてみた。恵方巻を食べる時に少しでも思い出してもらえれば幸いである。