大林軒の天地の余事

大林憲司のブログです。歴史とかについて書いていきたいと思います。

「福岡藩元和初年度分限帳と黒田家の危機」

長政公御代分限帳


※このブログは2023年11月25日に福岡地方史研究会例会の発表したレジュメを転載したものです。発表の時に説明した部分などは書いていませんのでわかりにくい部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。

 

 分限帳は藩に仕えている武士の名前と禄高を記したもの。今回の発表会では福岡県立図書館郷土資料室にある『長政公御代分限帳』を取り上げ、元和初年(1615年)分限帳の異本であることを明らかにする。またその分限帳の成立の過程で起こった「大坂の陣」で黒田家が迎えた危機とその危機からの脱出についても考察する。

1.福岡県立図書館郷土資料室にあった「長政公御代分限帳」

 郷土資料室で「長政公御代慶長初年分限帳」(K283 5 ナ)を見ていた時、後半に載っている『長政公御代分限帳』(当発表で取り上げる分限帳)の中に慶長9(1604)年に黒田家に召し抱えられた八木平左衛門、そして慶長11年に黒田家を退去した後藤隠岐(後藤又兵衛)の名前を発見した。これが正しいのであれば今まで知られていなかった慶長10年の分限帳だということになる。『長政公御代分限帳』の特徴については以下の通りである。なお『長政公御代分限帳』の名称が少し長いので『御代分限帳』と呼称する。
・『御代分限帳』の最後には「寛政四壬子年閏二月日」(※寛政四年は1792年)との記述があり最終的な成立の年代を表している。
・『御代分限帳』は明らかに二つの異なる筆跡で書かれており読みやすい筆跡は最後に書かれている年号と同じ筆跡で明らかに後で書き込まれたものである。
・形としては古い分限帳に後から書き込みを加えたもので、他の分限帳にもよくあるものとなっている。
・新しい書き込みについて検討すると実は間違いが多い。例を上げると「毛利市郎兵衛」の所に「左近」との書き込みがあるが、毛利市郎兵衛は毛利但馬(母里太兵衛)の娘婿で、毛利左近は毛利但馬の次男であり、明らかに別人である。他にもいくつか間違いがあり新しい書き込みはあまり信用できない。そして「後藤隠岐」は新しい書き込みの人名だ。
・少なくとも古い書き込みの中に慶長17年に黒田家に召し抱えられた「竹中主膳(竹中半兵衛の孫)」の名前があり、慶長17年以降に編集されたものであることは間違いない。
・新しい書き込みを無視して人名の比較をしたところ、実はこの『御代分限帳』は「福岡藩分限帳集成」(海鳥社)に収録の『元和分限帳』とほぼ同じものであることが判明した。従って『御代分限帳』は今まで知られていなかった新たな慶長期の分限帳ではなく『元和分限帳』の異本だと断定してよい。
・ただ『御代分限帳』の中に「岡本七太夫組 百六十石 中牟田右京」の名前があるが『元和分限帳』にはその名前がなく、『元和分限帳』よりも『御代分限帳』の方が古い史料に基づいているらしい。
・ただし、『御代分限帳』は本の綴じ方を間違っているようで、吉田壱岐組の人名が分断されている。新しく書き込みをした編集者もそれに気づいていたようで「い」「ろ」などの記号を書き込んでページ飛びへの注意を促している。

2.他の元和初年度分限帳との比較研究
 今まで活字化されている元和初年度分限帳は他に「黒田三藩分限帳」の『元和初年人数付』の(一)(二)がある。『元和分限帳』および『御代分限帳』とはほぼ同じだが、ただ一か所「毛利但馬」の部分が「毛利左近」となっている。毛利但馬は「元和元年六月六日」(正確に言えば「慶長20年6月6日」)に亡くなっているため、『元和分限帳』および『御代分限帳』のグループは毛利但馬が亡くなる前の慶長20年6月6日以前の成立、『元和初年人数付』(一)(二)はそれより後の成立ということになる。おそらく『元和分限帳』および『御代分限帳』の元となった分限帳は毛利但馬が亡くなる直前に完成したが、黒田家へ提出する前に毛利但馬が亡くなり、急いでその部分だけを修正したものが『元和初年人数付』になったのだろう。
 『元和分限帳』の最後には「千弐百五十四石 明石道斎(※明石全登)家来」という記述があるが、『御代分限帳』および『元和初年人数付』には存在せず、当時の状況を考えても『元和分限帳』の編集者が間違って慶長期の史料を書き加えてしまったのだろう。

3.『御代分限帳』の成立年代
 元和初年度分限帳の中で古いものだと推測される『御代分限帳』の成立年代がわかれば元和初年度分限帳の成立の背景が推測できることになる。
 竹中主膳の名前から慶長17年以降の成立であることは確かだが、もう少し年代を狭められるよう調べてみた。黒田官兵衛の弟の家系である黒田一門中では黒田利高の息子である黒田伯耆(政成)の名前はあるが、黒田直之(図書)の家系の名前は見られない。黒田直之は慶長14年、子供の黒田直基は慶長16年に亡くなっており、その家族はキリスト教への弾圧を嫌って黒田家を退去している。黒田官兵衛のもう一人の弟・黒田利則(養心)の家系に関しては「千八百石 黒田市兵衛」の名前だけが見える。黒田市兵衛(正興)は黒田利則の次男。黒田利則は慶長17年3月5日に、長男の黒田正喜は慶長18年8月2日に亡くなっている(「増益家臣伝」による。なお、黒田市兵衛は寛文3(1663)年閏5月26日没)。
 従って『御代分限帳』は、黒田正喜(修理)が亡くなった慶長18年8月2日以降、毛利但馬が没した慶長20年6月6日以前ということになる。そして『元和初年人数付』から判断して毛利但馬が没する直前、慶長20年5月くらいの成立ではないかと推測される。

4.元和初年度分限帳編纂の契機

 『御代分限帳』『元和分限帳』などの元和初年度分限帳の編纂が開始された契機であるが、おそらく慶長18年初頭に黒田家が徳川家と深い関係性を構築できたからではないかと考えている。
 慶長17年12月18日に駿府城黒田長政と萬徳(黒田忠之)が徳川家康に拝謁し、萬徳は家康から「右衛門佐」の名乗りを与えられた。慶長18年正月21日には江戸城において忠之(右衛門佐)が将軍徳川秀忠と対面し秀忠から一字をもらい「忠長」の名前(後に忠政また忠之と改めた)と「御家號」つまり「松平」の姓を許された(いずれも『徳川実記』による)。つまり黒田家は徳川家から認められ、ある意味対立していた豊前の細川家よりも徳川家との深い関係を築くことに成功した。この成功体験が元で分限帳の編集が始まったのではないかと思われる。ただし、慶長18年8月2日に黒田一門の黒田正喜が亡くなって黒田正喜家が断絶したため、その後の状況で分限帳は編集されたのだろう。

5.黒田家の危機

 徳川家と強い関係を構築することに成功した黒田家だったが、意外な所から危機が生じた。慶長18年4月25日に大久保長安が亡くなった。大久保長安は所務奉行・佐渡奉行・伊豆奉行などの職務に就き、一時は絶大な権勢を誇っていた。大久保長安が亡くなった後、一族は不正蓄財の罪に問われ、慶長18年7月9日には大久保長安の子供たちが切腹となり、大久保長安家は断絶となった。大久保長安一族が罰せられたことで、彼と関係の深かった大久保忠隣にも影響が及んでいく(大久保長安の「大久保」は大久保忠隣から与えられた姓)。
 大久保忠隣は徳川家康を支えた重臣大久保忠世の息子で、大久保忠世亡きあとは大久保家を継ぎ、本多正信・正純親子と共に幕政を取り仕切った。実は黒田家はこの大久保忠隣と深い関係を築くことにより、徳川家との関係を強めていった。黒田忠之は大久保忠隣の孫娘(後には養女)を許嫁としており黒田家と大久保忠隣は姻戚関係になる予定だった。
 しかし、大久保長安事件を契機として大久保忠隣は次第に徳川家から疎まれるようになっていく。慶長18年12月19日に大久保忠隣は京都のキリシタンの取り締まりのために急に京都に派遣されることになった。そして慶長19年正月19日、突如として大久保忠隣は改易されてしまう。
 当然、大久保忠隣と深い関係を築いていた黒田家にも影響は及び、黒田家は徳川家から睨まれる存在になっていたようだ。「徳川実記」によれば慶長19年正月20日徳川家康江戸城から駿府城に戻ろうとし、諸大名が家康への挨拶にやってきたが家康は会おうとしなかった。その中で細川越中守忠興と鍋島信濃守勝茂だけを特別に別々に呼んで対面している。言うまでもなくこの大名は黒田家に隣り合う大名である。大久保忠隣と親しかった黒田家を警戒して家康はこの二大名の忠誠を確かめたのかもしれない。
 慶長19年3月には、江戸城外壁の修築のため、黒田家を含む西日本の大名が江戸に呼び寄せられた。徳川家は大坂の豊臣家を攻撃するため、豊臣家に近い大名を江戸に貼り付けにして豊臣家と物理的に切り離す必要があった。黒田家は徳川家からの疑いを晴らすために石垣工事を必死になって行うしかなかった。福岡の麻生文書には麻生三左衛門に対して工事の遅れについて厳しい脅しの文句の並ぶ文書が残されている。
 それにも関わらず、慶長19年に大坂冬の陣が勃発すると、黒田長政福島正則加藤嘉明と共に従軍することを許されず江戸に残された。この時点で黒田家は徳川家から不審の念を持たれ危機を迎えていた。
 これに対して黒田長政は国元で病気療養中の黒田忠之に書状を送り、「死んでもいいから軍勢を率いて上方に上り家康に面会せよ」と厳命した。黒田忠之は上方に上り、家康と面会(系譜上忠之は家康の孫)した。「黒田家譜」によると病身を押してやってきた忠之を見て家康は涙を流したとのことである。

6.大坂夏の陣の勝敗を左右した黒田長政

 大坂の冬の陣は講和がなったが、徳川側が強引に大坂城の堀を埋め立てたことで豊臣側が怒り、大坂で再び戦いが始まった(大坂夏の陣)。黒田忠之と家康の面会が功を奏したのか、黒田長政加藤嘉明と共に参陣を許された(福島正則は参陣を許されなかった)。しかし、疑いをかけられないため、わずか三十騎ほどの兵を連れての参陣となった。
 「黒田家譜」によれば「徳川秀忠の旗本衆の後ろ、徳川家康の旗本衆との間」に陣取り加藤嘉明と共に何もすることなく豊臣家の滅亡を見届けたと思われている(実際「黒田家譜」「吉田家伝録」では黒田長政大坂夏の陣における軍功は何も記されていない)。
 しかし、「鹿児島県史料 旧記雑録後編四」(文書番号 1236)に次のようなことが書かれている。
「加藤左馬殿 黒田筑前守殿両人 御所様御旗本へ無御座候ハバ、今度之軍御勝ニ罷成間敷候へ共、両人之手柄迄ニて勝ニ成候て、御前之御仕合無申事候」
 この文書は大坂夏の陣が終った直後に島津家の関係者が夏の陣の情報を国元に伝えたもので信頼性の高い文書である。その文書では「この戦いは加藤嘉明黒田長政の手柄で勝ったようなものだ」と最大限の評価をしている。何もしていない(むしろ何もできない)はずの黒田長政加藤嘉明が何をしたのだろうか。
 実は幕府の公式な歴史書である「武徳編年集成」に黒田長政加藤嘉明大坂夏の陣での行動について記されている。それによると「戦いが始まったので、徳川秀忠が前線に出ようとして進んでいたら、黒田長政加藤嘉明が下馬して徳川秀忠を出迎えた。二人は『自分たちは豊臣家に忠義を尽くしてきたので御不審の念はもっともなことですが、我らは徳川家に忠義を尽くして戦います』と言ったので、徳川秀忠は二人を連れて前線に向かった」というもので、特別に何かやったことは書かれていない。しかし、これは「徳川秀忠徳川家康の間にいた」とする黒田家側の史料と明らかに矛盾する。もし、徳川秀忠黒田長政と出会ったとすれば、徳川家康の陣へと向かって進んでいた場合だけである。
 つまり徳川秀忠は、真田信繁の猛攻で徳川家康の本陣の馬印が倒されたのを見て、それを救うべく本隊と共に徳川家康の救援に向かっている途中で黒田長政と出会ったものらしい。「武徳編年集成」によると黒田長政は「天王寺方面は危ない」と徳川秀忠に進言しているので、徳川秀忠を押しとどめ引き返させたのは黒田長政らしい。もし、この時、徳川秀忠本隊が引き返さなければ岡山口方面の前衛部隊は崩壊していたはずで、大坂夏の陣は徳川側の惨敗という結果に終っていた可能性が高い。つまり「両人之手柄迄ニて勝ニ成候て」は真実だったのだ。

7.そして元和初年度分限帳

 大坂の夏の陣の功績で黒田家と加藤家に対する徳川家の心情は劇的に改善された。黒田長政の娘が徳川家の有力男子(徳川家光という説もある)と結婚するという話が流れ、各地の大名はその情報の確認に追われた。加藤嘉明も後に大幅な加増(伊予松山20万石→会津43万5500石)を受けている。両家とも息子の代に家老との深刻な対立を引き起こし、お家断絶になってもおかしくなかったが、両家とも大名として明治まで存続した(ただし、加藤家は水口藩2万石)。
 危機が続き「分限帳どころではない」黒田家だったが、大坂夏の陣が終わって危機を脱したことで編集していた分限帳を提出することになったと思われる。これが「元和初年度分限帳」なのだろう。しかし、黒田長政が福岡に帰ってくる(慶長20年7月)前に有力家臣である毛利但馬が亡くなったたため、毛利家の相続を待ってその部分だけ書き換えたものが『元和初年人数付』だと考えられる。元和初年度分限帳成立の背景には、危機とそれを乗り越えた黒田家の歴史が横たわっていたのである。

 

 

「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」

・これは福岡市総合図書館が所蔵する「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」を私・大林軒がテキストに起こしたものである。
・「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」は、江戸時代初期までに黒田家に仕えた武士の名前を、播磨・豊前筑前のいつの時代に黒田家に初めて仕えた(筮仕)かによって分類した名簿。基本的には名前のみ記載。
・福岡市総合図書館郷土資料室に紙焼版があり、「旧福岡藩主黒田家略系」と合本となっている。「旧福岡藩主黒田家略系」の最後の頁に「明治二十二年」の記述があり、「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」もその頃の成立かと思われる。
・著者名は不明だが、明治12年長野誠がまとめた「福岡啓藩志」の冒頭部分の名簿を清書したものと考えられ、長野誠が関連しているか。
・名簿には「公族」18名、「姻戚」22名、「執政」22名、「播磨筮仕」307名、「豊前筮仕」427名、「筑前筮仕」641名、僧侶22名、職人商人92名、巻末20名の合計1571名もの人名が記載されている。
・基本的に上下二段に分かれて記されている。「公族」までは一行目上段→一行目下段→二行目上段→二行目下段という形で人名が並んでいるが(「福岡啓藩志」冒頭名簿部分は最後までそうなっている)、「姻戚」以降は段の横方向に人名を並べているので、このテキストでも「姻戚」以降はそのまま人名を並べた。
・難読文字の解読には石瀧豊美氏にご協力いただいた。
・判別できない文字は〇で示した。
・(※)は私の注釈部分、()は人名横への書き込みを記したもの。
・「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」テキスト部分は次の行(題名)から最後まで。

播州豊前筑前筮仕諸臣名簿

公族
黒田兵庫助利高   黒田伯耆政成
黒田兵庫政一    黒田吉右衛門政仲
黒田養心利則    黒田修理孝章
黒田市松      黒田市兵衛正興
黒田修書亮直之   黒田長門直基
黒田総右衛門正直  黒田七郎
黒田宇兵衛     黒田千太夫隆友
井手勘右衛門友正  井手勘右衛門友氏
松井総四郎重尚   松井総八郎重孝

姻戚
明石市左衛門
明石權之丞安行
明石市郎右衛門正利
明石四郎兵衛行亮
櫛橋藤九郎定重
櫛橋三郎四郎
櫛橋三十郎
櫛橋宗雪
櫛橋七兵衛政次
櫛橋藤一郎
櫛橋孫八郎政清
小寺有庵氏職
尾上安右衛門武則
黒田與右衛門武信
黒田與右衛門武俊
三木吉十郎政家
梶原官蔵景次
梶原十郎兵衛景尚
梶原弥三兵衛
梶原善太夫景宗
梶原助右衛門景安
梶原平助景毅

執政
栗山備後利安
栗山大膳利章
久野四郎兵衛重勝
久野次左衛門重義
久野外記重綱
久野仁助重純
井上周防之房
井上右近一利
井上主馬正友
井上淡路守庸名
毛利但馬友信
毛利左近友生
毛利市郎兵衛
小河内蔵允之直
黒田美作一成
黒田三左衛門一任
桐山丹波丹洲
桐山作兵衛利行
野村大学祐直
黒田監物利良
菅和泉正利
菅主水重俊

播磨筮仕諸臣
久野善五郎重誠
久野勘助元次
久野三太夫
久野五郎兵衛昌直
久野七兵衛昌次
久野勘右衛門
久野次郎太夫
久野嘉右衛門
久野十兵衛
吉田喜三右衛門重昭
吉田宮内生李
喜多村六兵衛勝吉
喜多村安右衛門清忠
喜多村孫之丞勝丘
喜多村甚左衛門賀重
喜多村九左衛門賀利
宮崎織部安尚
宮崎藤右衛門重昌
母里與三兵衛正勝
母里與右衛門
衣笠因幡景延
衣笠與兵衛景宗
尾上右京亮可親
尾上藤太夫可保
尾上藤五郎則定
尾上九郎太夫可正
尾江惣次郎重常
尾江與七
宮田治兵衛信元
小川與三左衛門氏豐
中村喜右衛門正友
志方左助
志方総太夫吉次
鳩岡次郎兵衛
大野権右衛門
栗山與三郎
桂藤三郎友長
宮内味助久重
桂菊右衛門近信
中村與一兵衛
竹森石見次貞
森清左衛門貞幸
竹森善兵衛吉次
竹森松若(藤左衛門)
上原新左衛門
上原丹後直近
上原善助
上原山三郎
益田與助宗清
益田縫殿助
益田與九郎
益田彦兵衛
手塚孫大夫辰連
手塚甚兵衛季治
手塚孫大夫辰重
手塚久左衛門元利
南畝三郎
宮崎與三兵衛重利
宮崎與三左衛門
宮崎善兵衛
宮崎又五郎
宮崎八左衛門
高野藤右衛門
大野藤左衛門
大野助右衛門
大野助右衛門種重
黒田西念
吉田大蔵
吉田六助
佐々木小兵衛
佐々木武兵衛
母里雅楽助義時
母里四郎左衛門義貫
母里七右衛門堅連
母里次郎右衛門
母里弥左衛門久連
三宅若狭家義
三宅忠兵衛
吉田壱岐長利
吉田與次
吉田壱岐重成
吉田九郎右衛門
吉田太郎太夫重久
吉田小和助利成
吉田喜八郎
吉田太郎右衛門利貞
小河傳右衛門信章
曽我大隅一信
野村太郎兵衛祐勝
曽我武兵衛
野口左助一成
野口八右衛門一吉
三宅與次右衛門
三宅與次右衛門重行
小林新兵衛重勝
小林市蔵
垂見早之助
大野九郎左衛門正俊
大野吉蔵正之
大野喜兵衛
井口猪之助
井口牛右衛門
井口麦右衛門
井口六太夫
井口甚十郎
村田出羽吉次
村田兵助吉常
生田木屋屋助重勝
臼杵杢之助直里
黒田次郎兵衛正吉
黒田市右衛門景好
松本能登勝重
松本吉右衛門
畑作右衛門政房
畑作右衛門政次
戸田三郎左衛門直則
戸田平左衛門玄綱
戸田半左衛門玄勝
戸田孫右衛門
秦 桐若
神吉長右衛門祐重
神吉六太夫頼元
神吉新作廣直
神吉三九郎
神吉三八定廣
神吉安右衛門成定
林 掃部直利
長濱七郎太夫武慶
長濱新三郎武澄
名村七郎右衛門武利
長濱孫左衛門武久
曽我部五右衛門通範
曽我部金右衛門通次
池田九郎兵衛正方
池田六郎左衛門常秀
貝原市兵衛
井上傳次
南畝武太夫
南畝源太郎
南畝喜平次
南畝小作
南畝弥四郎
南畝総左衛門本重
高橋平太夫猶匡
高橋伊豆匡順
四宮次左衛門祐忠
四宮蔵人正成
四宮万七正建
大野小弁次正重
大野小八郎
大野勝左衛門
大野惣左衛門
横山與次安元
横山喜左衛門安成
岡本弥兵衛友章
岡本惣兵衛正俊
船橋太夫貞近
船橋十郎左衛門
船橋五郎作
岸本五郎兵衛久徳
岸本作太夫一久
恒屋與左衛門正晴
恒屋角太夫吉次
恒屋善七郎
梶原八郎太夫景種
梶原七右衛門景賢
梶原八郎太夫景守
内海甚左衛門
大津小左衛門
佐谷蔵人俊職
佐谷五郎太夫俊直
佐谷碧松庵
 (佐谷俊職婿)
古林見空正温
坪田藤左衛門玄雄
坪田小右衛門玄行
粟田十右衛門重継
粟田清太夫重利
篠田八兵衛
篠田七郎右衛門重治
肥塚理右衛門吉道
肥塚十左衛門吉勝
鳥居数馬吉重
鳥居與右衛門元員
鳥居藤兵衛元重
百富長世
百富弥三次
石田茂左衛門正綱
高畠九右衛門義次
林 五助
林喜兵太重久
越知源左衛門通氏
越知善五郎通職
中村彦三郎
中村彦兵衛
林 勝七利正
林安左衛門利勝
林 藤兵衛利重
上村助六重正鎭
長井八郎右衛門盛家
長井八郎右衛門盛鎭
中村小三郎
中村藤兵衛
中村四郎太夫
中村三郎右衛門
中村久七
都築十兵衛重辰
久野権右衛門
伊藤次郎兵衛
高屋三郎右エ門
高屋○作
高屋九左衛門
屋久右衛門重一
吉田弥三兵衛範元
吉田弥三兵衛範純
松原鶴右衛門
梶原太郎左衛門
梶原長助
宇佐美左馬助
宇佐美十八
吉田弥三右衛門
吉田忠右衛門
礒山正七
手島太郎左衛門
伊勢田兵太夫宗清
伊勢田次郎右衛門正仍
伊勢田三七郎
伊勢田久左衛門正理
大鋸喜兵衛豐成
寺田弥三兵衛
寺田茂兵衛
岸田喜三右衛門重門
魚住新左衛門貞由
魚住五郎右衛門貞家
伊藤四郎兵衛
伊藤市左衛門
伊藤忠兵衛
中村正左衛門
近松四郎左衛門吉盛
尾上喜助
尾上与三次郎
尾上藤三郎
尾上仁左衛門勝義
伊丹十一右衛門親徳
岡部平兵衛
吉田市左衛門
松原勘兵衛
松原加兵衛
岸原七郎右衛門祐信
岸原弥蔵重信
尾崎與左衛門一成
尾崎與兵衛一利
岡村次郎右衛門三正
小谷與三右衛門
山本七郎右衛門
塚本孫七直満
中村仁兵衛
中村権右衛門安貞
陶山甚左衛門正春
村澤孫右衛門重貞
内海太郎兵衛利直
中西佐右衛門
中西佐右衛門
市村弥助
万代三善
万代善助
松原六郎左衛門
松原久兵衛
香山加兵衛
香山与一兵衛
伊澤三太夫
川島七郎左衛門貞次
小河孫左衛門
川島五郎太夫貞元
川島次郎左衛門
中村安兵衛
嶋津藤兵衛
嶋津惣兵衛茂一
疋田次郎兵衛正義
    小三次正道
疋田清兵衛正信
疋(原)田弥右衛門
原田市蔵
原田専右衛門
加藤十兵衛宗利
大野彦太夫
光富勝右衛門
光富立右衛門
光富正右衛門
摩田七郎
摩田甚内
志方彦太夫
志方八左衛門
林四郎兵衛次久
川端孫大夫
川端茂右衛門
加藤左近右衛門
楓市左衛門重眞
礒山太郎兵衛
礒山勝七
石井孫兵衛
臼杵孫四郎
  角助
竹林清兵衛
山脇正六
石松権作
小林杢右衛門
川邉昌斎

豊前筮仕諸臣
時枝平太夫重記
時枝次右衛門宗安
時枝何左衛門宗清
田吉右衛門正時
黒田安太夫公與
黒田蔵人正重
黒田六郎右衛門統胤
黒田六郎右衛門忠胤
中間與次右衛門重友
原 伊豫種良
原 吉蔵種盛
原 與六種武
原喜左衛門
原五郎左衛門
廣津治部少輔鎭種
廣津伊左衛門吉種
小河三河良貫
小河久太夫良實
山脇権之助良重
小河勘左衛門之貞
小河権太夫重勝
小河久太夫政良
大音彦左衛門重泰
大音六左衛門重成
木谷左近太夫
木谷弥太郎
木谷兵右衛門友清
坂本七右衛門
西郷掃部助英政
西郷左馬助資氏
西郷次郎右衛門利高
内海甚左衛門
大津小左衛門
万田 左近
荒巻軍兵衛行實
荒巻権兵衛
荒巻作左衛門
荒巻権右衛門
荒巻作助
兵藤孫右衛門
三毛門三郎太夫惟永
三毛門権右衛門惟永
恵良弥六盛重
白石監物重行
白石六之丞
白石正兵衛
白石権助重宗
小川左兵衛氏則
田代外記政純
田代四郎左衛門政久
岸 弥吉
太田主馬允
太田清兵衛
長濱九郎右衛門
津田長左衛門貞俊
鵜足長五郎
毛屋武蔵武久
毛屋太右衛門武重
勝野長助政俊
浅香左馬助
舩曳杢左衛門近正
舩曳刑部正重
舩曳総左衛門重時
舩曳久太郎
舩曳杢之助義次
舩曳與三兵衛正由
舩曳神左衛門正則
久田弥左衛門重興
久田鶴松
久田弥左衛門
二宮右馬助幸俊
神屋源太夫貞俊
神屋源三兵衛
村 四郎兵衛
村 九左衛門
矢野善八
水野六左衛門勝成
木山紹宅
出井九兵衛
馬杉喜左衛門一正
馬杉平三郎
横寺神助宗政
横寺傳兵衛貞明
西三郎左衛門
西村惣兵衛
野間彦右衛門
野間源一郎
野間又六
野間五兵衛
長谷川助左衛門
戸田五郎兵衛等五人
黒田勘右衛門
堤 九兵衛
村上彦右衛門通清
片岡忠右衛門
片岡兵太夫
岡善左衛門時家
廣瀬作次
廣瀬九助
廣瀬九右衛門
住江武右衛門
後藤半内
河井六右衛門
熊江助五郎
鶴田源右衛門
宇治勘七
渡邉平吉
野間忠左衛門
掘平右衛門正俊
松原長兵衛
丹作右衛門等廿四人
菅七郎兵衛正光
菅弥市右衛門正周
菅四郎左衛門正明
弥十郎正辰
山下平兵衛
山下平五郎
南畝勘右衛門
南畝治吉
井澤作右衛門
庄林七兵衛一重
浦上新兵衛正直
浦上徳太夫正久
浦上勝七
浦上駒助
浦上傳助
青木理兵衛
野間治兵衛
村山角左衛門正茂
礒與三左衛門政景
宇保四郎兵衛
高原伊右衛門利正
高原孫十郎
高原神左衛門
恵良民部
恵良久左衛門
片島弥左衛門
片島孫蔵
坪井善兵衛
津田長太夫
黒田五郎右衛門
仙石角右衛門
岩井半左衛門
松田車介
村山十左衛門
藤田清左衛門
松原助兵衛
松原助右衛門
林 三六
杉原一佐
小林甚右衛門久重
小林内匠助重利
小林與兵衛
本多半三郎
馬詰権右衛門
野村五郎八
宮田與次兵衛
加藤源三郎清元
石川十左衛門
高瀬又左衛門
山田孫助
山田彦三郎
三宅藤五郎
村上長助宗清
礒野五郎兵衛
嶋田正兵衛
山路仁左衛門重泰
寶江九郎兵衛等四人
礒村左兵衛
下島左兵衛
宮崎島之助
礒村五郎左衛門
加藤孫四郎
村 助次郎
下島次郎太夫
下島藤五郎
松田源右衛門
三宅次郎右衛門
関 正吉
関加左衛門吉直
榊 傳兵衛
眞鍋 安藝重成
海津半太夫
海津市左衛門
海津八左衛門
海津長七
嶺 三右衛門
田邉與作
宮崎太郎兵衛
塚本七郎右衛門
梶原弥次兵衛景鎭
千代平右衛門
新免無二助一眞
岩崎平兵衛元胤 僧龍嶽
岩崎善兵衛
大塚権兵衛直重
倉八六右衛門治勝
倉八権右衛門正盈
倉八十太夫正俊
鶴原喜兵衛
鶴原鴈林
正岡勝右衛門門吉
正岡九左衛門
松村五郎七定勝
松村九郎太夫勝成
了 澤
花房治左衛門三仍
林 仁左衛門重益
西村市之丞
出井八郎左衛門
細江三郎左衛門常利
安井六右衛門重義
安井権左衛門重明
恵良治部
深見五郎右衛門重昌
舩越兵右衛門
中村與兵衛正之
村上助兵衛
熊谷外記
平野勘左衛門政康
平野十兵衛幸成
入江治太夫
藤井九左衛門一光
月成忠左衛門重清
月成茂左衛門重治
瀧 四左衛門
櫛田九右衛門
木全半兵衛
寺田傳右衛門
原田右衛門尉
神崎刑部
山本兵右衛門重時
山本新左衛門正次
大塚久助重則
大塚五兵衛重治
大塚助右衛門重次
河村五郎兵衛吉家
河村正兵衛吉武
鷲見半四郎
    毛利甚九
藤江三吉等八人
杉原小左衛門信正
平田久内
平瀬勘兵衛
平瀬伊左衛門
瓦村又兵衛正信
瓦林平太夫正次
澄川甚左衛門時勝
久保傳蔵
久保久内
久保正助
爪田清右衛門俊種
酒井九左衛門重科
酒井作左衛門重信
峯加兵衛
向四郎左衛門
恵良又右衛門
弓削多左衛門
宮野猪兵衛等十五人
斎藤九郎右衛門
斎藤太郎左衛門
斎藤次郎兵衛
斎藤杢右衛門
三木知了
岡清右衛門
角恒又右衛門
角恒伊兵衛
福永丹右衛門
福永九右衛門
上原庄右衛門
上原兵太夫
恒屋五郎左衛門
中島甚右衛門
中島次郎八
上月太吉
上月清右衛門
伊勢田孫大夫
伊勢田権内
伊勢田孫市
伊勢田(原)正左衛門
田原権右衛門
田原五助
小西作左衛門
小西與三兵衛
小西正兵衛
小西源五
井口與左衛門
小河與三兵衛
小河太郎太夫
小河十郎
平位三郎兵衛
久野六郎兵衛正基
久野作蔵
久野久兵衛
山崎五右衛門
小林牛兵衛
小林弥十郎
小林與市兵衛
千田六左衛門
柳井彦右衛門
柳井平右衛門
舩曳弥右衛門
舩曳藤四郎
南畝勘左衛門
大島又右衛門
長濱久右衛門
片山作右衛門
田中仁助
加村甚助
田邉源助
斗倉五左衛門
岡本久助
森本仁蔵
岡本清右衛門
山本甚太夫
津田才蔵
栗山甚三郎
養父仁左衛門
池田久兵衛
弥倉八郎兵衛等八人
小林喜兵衛
竹井次郎兵衛
大庭傳右衛門
時枝三右衛門
加藤清左衛門重時
加藤清左衛門重勝
川端八右衛門利方
川端次郎右衛門利政
和田六太夫成利
小柳権七
奈良原牛之助致重
是安甚太夫
石松羽右衛門
今村市太夫
友杉外記
末村源内
板並蔵人
山九左衛門
山崎彦兵衛
高田市太夫安通
江見彦右衛門秀俊
荻本忠兵衛正興
大村六太夫武允
芳賀新兵衛元直
井上五郎右衛門
原田傳右衛門
明口七郎右衛門
森 仁兵衛
井口甚右衛門
吉田八郎右衛門
吉田善右衛門
三浦弥左衛門生房
三輪右兵衛正房
宮崎杢之丞
糟屋茂兵衛
進藤嘉右衛門
松井新助
木原策庵通貫
勝野鷲之助
松本助右衛門
得丸源七郎
得丸次兵衛
井上夘兵衛
庄 正七
時枝與左衛門
時枝三太夫
松田掃部
加藤清太夫
加藤将
立川甚右衛門等九人
母里勘太夫
嶋田彦兵衛
石川伊右衛門
岩田又右衛門
山中市内
山下源五兵衛
上條新助
金子作右衛門
関 勘六
中村甚助
牛島六右衛門
渡邉八右衛門
大野勘右衛門直生
大野久太夫氏重
大野三郎左衛門吉乗
富田仁左衛門
吉村孫市
梶原久助正勝
稗田九蔵
山本勝蔵
下田作右衛門
出井與助
酒井少右衛門
平田彦右衛門
平田彦次郎
小栗次右衛門
松隈藤三郎
黒田一夢
斎藤孫七
庄 利助
岩野次兵衛
石井三蔵
真崎七右衛門
石井傳蔵等四人
井村四郎左衛門
福地平蔵
安木次太夫
菅松右衛門
森十右衛門
吉田龍右衛門等三人
南 弥助
伊福市太夫
長濱久左衛門幸村
宮崎作之丞直俊
阿波権太郎
丸岡又兵衛
阿波平六
原田久次郎吉成
坂田嘉左衛門重輝
川下次兵衛
藤田次郎左衛門
上杉作左衛門
中村弥之助
金山文太夫直元
村山猪右衛門
都田勝左衛門
篠原久三郎利定

筑前筮仕諸臣
加藤内匠吉成
加藤主殿成忠
飯尾理右衛門直延
飯尾権右衛門
飯尾甚太夫安延
飯尾四郎左衛門正成
垣見次兵衛
樋口兵右衛門
宗 故
小河源左衛門
小河源六
小河杢右衛門元利
服部久三郎
伊丹九郎左衛門氏親
濱田五郎兵衛綱則
後藤彦右衛門
縄生権右衛門
桒原善兵衛
土橋五郎右衛門
神崎乗右衛門
縣 久兵衛
縣 孫三郎
金子九郎兵衛
村山十太夫等三人
小堀久左衛門奥治
明石與太郎政村
明石菊右衛門政重
明石半右衛門友正
明石九郎太夫則正
小泉新八等三人
平井善右衛門秀利
平井理助秀一
平井與三左(左衛)門利重
平井善右衛門則行
長谷十郎左衛門直方
新免伊賀則種
新免宇兵衛
新免七兵衛種信
原田又左衛門
原田十郎左衛門清昭
廣羽平右衛門元渥
岡九郎次郎
久野與次等二人
田吹與三右衛門
田吹宗六
柏原新十郎
柏村助左衛門
柏原太郎八
井口助十郎等三人
高畠五兵衛
入江宗遊
松岡文右衛門
野村勘右衛門直貞
野村勘右衛門利貞
荒木善左衛門元満
荒木四兵衛元政
石尾越後守治一
眞島久兵衛久安
牛尾太郎左衛門久則
立花三河増時
立花吉右衛門成家
立花雅楽助正成
立花甚兵衛正時
立花弥兵衛増重
松本五右衛門之成
松本五兵衛美成
喜多村多兵衛正直
渡邉宗安
板附次郎右衛門定友
板附次郎右衛門家友
鳥居左近右衛門
鳥居(島)平右衛門
島 左兵衛
大塚久左衛門
大島又右衛門
黒田専右衛門政勝
黒田勘十郎政重
荻 正兵衛正致
田尻彦右衛門正利
田尻孫兵衛正重
小西助之丞正廣
中島半六
夏井孫左衛門
吉田次右衛門
吉田七郎右衛門
團 将監爪兵
團 安兵衛
倉八市郎
恵良太郎左衛門
榊 傳吉
野間助兵衛等二人
原田三郎左衛門
藤江九郎兵衛
松山伊兵衛
井口源兵衛
福西勘兵衛
岡十左衛門
益田弥右衛門
吉岡一夢
福島六太夫
大野惣五郎
荒木勘兵衛
石黒三十郎等三人
村山三郎右衛門等二人
遠山傳左衛門重利
遠山長右衛門
関九左衛門三高
岡本権之丞
毛利又左衛門元辰
毛利数馬元通
郡治左衛門
花房又左衛門
花房左吉豐則
花房佐吉慶則
花房五左衛門
高山弥平次
海津斎助
海津與十郎
山崎嘉助正實
大杉久左衛門
福島宗仁
三好助兵衛
三好儀太夫生貞
栗山琳洲
山口孫右衛門勝直
村尾傳左衛門
尾三右衛門友時
伴彦兵衛
黒岩彦右衛門
倉八左京
山田三郎兵衛
野間忠次郎
野間與八郎
安宅平助
福西道達
塩田彦左衛門
林田善助
籠畠左衛門尉
一双次郎右衛門
進藤太郎左衛門
野上宗甫
関次郎右衛門
石野與兵衛
益田善次郎
内藤内膳
藤十郎左衛門
高岡権太夫
原田多左衛門
吉賀江右京
吉村九助
川崎清左衛門
安藤次郎兵衛
森岡孫左衛門
桂 萬助
松井少九郎
小川道故
瀧川左門
酒井清左衛門
柏原小吉
田村藤蔵
山本勝右衛門等廿四人
坂本與蔵
高澤左太夫
倉八藤意
伊藤茂兵衛
佐治内記
伊勢田市郎右衛門等二人
臼井次郎右衛門安宣
一部次郎左衛門時平
丹半左衛門親次
薦野伊兵衛
薦野三郎兵衛
丹安右衛門正次
稲葉五郎右衛門
足立勝右衛門
千手平右衛門
中牟田右京進唯盛
鳥飼五郎兵衛廣直
村山弾正
入江左馬允
八木平左衛門吉宗
下村五郎太夫正清
下村喜右衛門
深田市太夫正重
花田権右衛門
  花田源右衛門
上野忠右衛門義正
上野半兵衛
辻 善七
末永刑部景直
末永七郎左衛門元忠
山崎茂右衛門基久
麻生四郎右衛門家勝
吉田孫右衛門
小栗又右衛門
小栗弥右衛門
飛松彦右衛門
狭間四郎左衛門
隈次(沢ヵ)長兵衛等三人
大島小左衛門
倉八藤兵衛
明石八郎右衛門
上田藤三郎
有吉石見貞久
斎藤甚右衛門良親
梶川七左衛門光重
住江平吉
島平右衛門
郡正太夫慶成
庄野半太夫正直
時枝長五郎
時枝作内
辛島記之助勝秀
辛島次太夫勝経
庄 甚兵衛
増田與六郎政次
弓削弥兵衛
九鬼四郎兵衛廣隆
角田六左衛門
包久藤兵衛
包久弥三郎
岩本水源
岩本七郎左衛門
武藤三右衛門
青野六太夫高族
奥村金右衛門
奥村七右衛門
奥村茂右衛門
八杉角左衛門
尾江亀右衛門
尾江平太夫
三木太郎兵衛
中島弥五左衛門
中村忠右衛門
河津半右衛門
河村傳三郎
十時相模一近
十時勝八
十時才蔵安信
辻藤右衛門吉正
川勝平左衛門
駒山次郎兵衛
埴生太郎左衛門幸親
井上九右衛門行俊
長富仁左衛門
木村平左衛門
垂井瀬兵衛
森勝右衛門成正
伊藤嘉兵衛
安岡利兵衛章實
竹中與右衛門重次
莎 勘兵衛正元
上野外記等三人
依藤牛之助
酒井市郎右衛門
酒井多左衛門
丹羽権右衛門一良
河村治兵衛
児玉新左衛門
佐橋作左衛門
佐橋甚之允
辻三郎兵衛
戸田作右衛門重成
有松茂左衛門
三宅與三右衛門
小河長右衛門
野間瀬兵衛武氏
松下傳右衛門
松下源助則勝
後藤金右衛門基〇
小川三郎兵衛
岡本半右衛門
杉勝左衛門
斎藤善兵衛
山角弥三右衛門
三輪平右衛門
野間三郎右衛門
朽網加兵衛
湯浅喜左衛門
横山才右衛門
村上多左衛門
長尾傳兵衛
中村佐太夫
吉岡六右衛門
神屋五平治
河合彦兵衛
井村與三右衛門
赤川伊左衛門
赤井仁兵衛
二宮頼母
小林市介
中原七兵衛
土方金太夫
常川理兵衛
團平左衛門
辻三郎四郎
前田弥右衛門
小関新右衛門
大塚武左衛門
小河勘助
尾江清三郎
林 宗洲
林多右衛門
吉田助丞等弐人
礒田才兵衛
中村新九郎
水谷八左衛門
手塚小八郎等十九人
三宅九郎兵衛
益田與市
岡村庄左衛門
益田助次郎等二人
喜多村六左衛門等二人
土田権右衛門
井土甚右衛門
明石與兵衛
佐中與三右衛門
山崎三郎左衛門等十五人
峯 忠左衛門
廣田十兵衛直友
松本兵右衛門等四人
大谷宗斎
田中七郎右衛門政顕
田中仁助
信太大和朝勝
崎山左兵衛等二人
野上一桂
馬場弥兵衛等十二人
片山角左衛門
森川為右衛門
香江玄悦
服部牛右衛門康次
岡崎新兵衛
服部久右衛門
富野伊左衛門
脇野源右衛門等四人
脇山三郎左衛門信則
脇山三郎左衛門秀則
横山勘介
山田與三左衛門
長柄四郎兵衛
戸波八兵衛
瀬畑理兵衛
長濱善兵衛
郡金右衛門利宗
下見孫左衛門
上田彦右衛門
江田総兵衛
礒部甚兵衛
鷹取甚右衛門秀次
鷹取養巴政之
鷹取壽斎秀興
杉山諸左衛門三正
國友総左衛門重成
松山茂左衛門成勝
神代助左衛門勝茂
澤原善兵衛久信
長井彦右衛門實光
中村喜兵衛
月瀬右馬允照方
島村九兵衛則貫
嶋村九太夫貫吉
栗原善兵衛重勝
石松源右衛門
角 道意
梅谷太郎兵衛
小河理右衛門
林傳右衛門等八人
上山兵部
岸儀左衛門
千田徳左衛門
斎藤杢之允
斎藤車之助
海津加助
三木七左衛門
馬場半右衛門
益田六左衛門
桒原久兵衛
高岡次郎助等四人
上田半兵衛
伊勢田市左衛門
岡嶋傳助
津田正兵衛
吉村七郎兵衛
尾江清右衛門
荻五郎右衛門等五人
岩崎三郎左衛門
村上三太夫豐成
浦上三郎兵衛正明
木附多左衛門氏久
大村五左衛門
村井惣左衛門利直
足立作兵衛
落合勘兵衛
石松源次郎貞次
安部惣左衛門一任
三宅次郎太夫
関権左衛門
西川九郎兵衛正次
喜多嶋次右衛門
河崎助左衛門
河崎三郎左衛門宗次
藤 左京亮
村岡大炊
雑賀三郎左衛門秋豐
市川権右衛門
永田六右衛門
長野正三郎
(※一行アキ)
分斎
加藤采女
大岡角助
芳賀理右衛門鎭友
山崎小二郎
湯浅三郎兵衛
進藤十助等十四人
中村孫助等二人
萱嶋傳右衛門
室 理右衛門等五人
奥田助次郎
肱嶋理右衛門
吉岡将監
河原又右衛門等四人
石河平右衛門等七人
中川半三郎等三人
浦上四郎太夫正恒
浦上半右衛門重正
大庭清兵衛
細江勝助
宇野勘右衛門
小林四兵衛
中村外記
岡本與市
吉村弥三郎
原田與三郎
内田甚五左衛門等二人
永井平兵衛等二人
後藤平助
中村四郎左衛門
尾江弥右衛門
掘忠左衛門
寺田作右衛門
池田瀬兵衛
木村平左衛門
北村加賀等三人
〇(榎ヵ)井新兵衛
母里加兵衛貞成
竹井市兵衛
江島権右衛門等三人
村上次郎右衛門
二木利助等五人
松尾与右衛門等六人
吉田平右衛門
野口角右衛門
岩崎彦兵衛
小西三右衛門
池太郎右衛門信勝
池 甚太郎信次
沢原仁左衛門
澤助太夫
山田仁助
佐谷九右衛門
竹田源三
神吉傳右衛門
小島與蔵等二人
太田忠右衛門
帆足三右衛門
津田市兵衛
栗山権右衛門
森五郎左衛門
杉十左衛門等七人
竹田甚蔵等十五人
白木甚右衛門
渡邉源右衛門
瀬良權右衛門
入江甚右衛門
國部孫右衛門
中間作左衛門
廣田次兵衛
大庭右京
飯沼又左衛門
上月九郎右衛門
中島傳左衛門
深見加右衛門
後藤權右衛門
加来惣兵衛
名村太郎左衛門
大坪勘右衛門等八人
寺田助右衛門
大畠市右衛門
小島四郎左衛門
吉村七太夫
久芳與三右衛門直嘉
梅野土佐
梅野弥三右衛門
魚住次郎兵衛重昌
野村与兵衛信芳
長田六兵衛
伊藤半右衛門
竹中奥右衛門
松岡五左衛門
市村彦助
松田十左衛門
野村彦左衛門
門司傳助
三芳市左衛門
大神金右衛門統久
母里理右衛門
安丸源右衛門
大塩三郎左衛門
下村二郎右衛門
木原清太夫
金川仁兵衛
山川金右衛門
清田喜右衛門
柏村左太夫
吉田七右衛門
疋田助兵衛
河口忠太夫等十三人
伊藤正右衛門
濱邉彦兵衛
占部次右衛門
池口勝助
三木七郎兵衛
竹内助兵衛
久野与右衛門
小河九左衛門
川端與兵衛
黒田作兵衛
原田久兵衛
大塩九右衛門
岡村源兵衛
小野五左衛門
川越勝右衛門
伊藤次郎右衛門等六人
大塩六左衛門
大村弥右衛門
伊藤正左衛門
長濱左兵衛
嶋助左衛門
原田三郎兵衛
板並五右衛門有
榊次太夫忠次
竹井安太夫
片山六左衛門
山新兵衛
竹井十左衛門等廿二人
佐藤小右衛門
中西道和
坂本太兵衛
頭山次郎兵衛正房
井上八兵衛
井上傳右衛門
野依傳十郎等十五人
水越長右衛門常一
進藤七太夫
吉村又右衛門
狩野新助
狩野二郎右衛門
長濱傳十郎
大野六郎左衛門等八人
河本平太夫
安東半之丞
寺村十左衛門
藤田正兵衛
大野多左衛門
宮野惣右衛門
志水善右衛門
中村九太夫
川端茂兵衛
川端善左衛門常則
川端與兵衛
志水九郎兵衛正義
岩田勘左衛門
永井百助等十人
宮崎蔵人
萩本伊右衛門秀次
高橋次左衛門景義
長徳太兵衛勝重
天野少左衛門正勝
許斐次郎兵衛氏明
足立權太夫
伊右衛門
吉武左近右衛門
高崎九郎兵衛宗重
大西源右衛門
原田夘右衛門光辰等三人
南部傳左衛門等十二人
小川孫兵衛重次
野村團右衛門
片嶋理兵衛
野村堅次等六人
三木孫左衛門
崎田〇助等十一人
山田弥九郎
斎藤庄左衛門
桒原牛右衛門
野村甚助
小林吉左衛門等四人
古市彦太夫
小河源六等十三人
濱與市右衛門
田瀬甚兵衛等二人
桂 孫兵衛
原久右衛門等八人
肥塚五郎太夫
西村九左衛門
野田仁兵衛
肥塚理右衛門等九人
中野甚兵衛
山田正左衛門
中村六郎右衛門
大塚惣太夫
高橋弥次右衛門
西原藤左衛門
妹尾藤兵衛
村上半左衛門
大庭善兵衛
竹内惣五郎
竹内惣左衛門
板並与右衛門
茂田次郎兵衛一豐
大西善右衛門
米澤作右衛門
望月八右衛門
吉村千太夫
高嶋与左衛門
中野權右衛門
服部宅右衛門
樋口助右衛門
藤野伊右衛門
藤田甚左衛門
眞鍋六郎左衛門
波多江丹後
野上市郎右衛門
坂本惣左衛門
在井惣左衛門
高宮市左衛門
阿部平助
芹田清右衛門友房
上田十右衛門
坂田杢右衛門

(※「福岡啓藩志」では『附録上』の名称あり。僧侶か)
播磨
心光寺親譽専阿
圓座寺眞誉見道
大長寺團空長徹
光心
林〇
豊前
安國寺天翁全補
吉祥院尊秀
長福寺日圓
浄念寺桂空舜道
瑞名寺悟叟清覚
龍宮寺本譽
筑前
大鳥居信胤
聖福寺九皐宗疇
承天寺鉄舟圓敏
崇福寺雲英宗仲
崇福寺江月宗玩
大養院功傳宗樹
勝立寺日忠
吉祥寺齢甫
西福寺
承福寺
極楽寺弾譽

(※「福岡啓藩志」では『附録中』の名称あり。職人および商人か)
播磨
(檜物師)
関甚右衛門重友
栗原與三右衛門
栗原半四郎
(紺屋)
岸原弥三兵衛
(白金屋)
永野甚左衛門
(畳屋)
城戸喜右衛門
(船大工)
戸部弥三郎
(大工)
池風呂新蔵
大石藤兵衛
(舟大工)
大隅茂右衛門
(大工)
川端次郎兵衛
吉田善三郎
井上傳右衛門
(瓦師)
喜多村甚左衛門
喜多村太郎太夫
山崎権右衛門
山崎彦兵衛
正木仁兵衛
田中長右衛門
千胡藤兵衛
(金具師)
山田次右衛門
(鉄砲師)
市木清兵衛道清
(研師)
吉井惣左衛門
(臺師)
木道清左衛門
(切附師)
丹波(羽)太兵衛
(万細工屋)
  八郎右衛門
  孫兵衛
(桶屋)
山本助太夫
  次郎九郎
  小左衛門
(白土屋)
安武善左衛門
(檜物師)
吉田弥兵衛
(柄巻師)
桒野
  又兵衛
石蔵利左衛門
(菓子屋)
  七郎右衛門
(畳屋)
宮崎武四郎
(乗物師)
是松次郎兵衛
(表具屋)
小島六兵衛
日高兵部
(研師)
吉井惣左衛門
松村平四郎
(天王寺屋)
  弥右衛門
松村惣七
上原源右衛門
白垣三郎右衛門
  惣兵衛
望月弥右衛門
  兵九郎
(塗師)
  市兵衛
大口七郎右衛門
豊前
信國助左衛門吉貞
信國平四郎吉政
井上助右衛門
寺田中務
高取 八蔵重貞
上野作右衛門
松村徳右衛門
(木挽)
  又右衛門
師岡藤左衛門
高野久右衛門
渋谷茂兵衛
野上太右衛門
筑前
大賀甚四郎信好
末次與三郎
(春翁宗〇徳居士)
神屋善四郎貞清
嶋井徳太夫茂勝
徳永次郎左衛門
竹若空印
竹若惣左衛門
八尋左七
守次半三兵衛利英
守次権三兵衛利平
下坂彦太夫義辰
下坂作兵衛辰仲
岩井源助貞勝
春日治兵衛
(弓師)
  善左衛門
(鎧師)
  又蔵
吉岡茂右衛門
(象眼師)
  徳右衛門
鷹見右近右衛門
鷹見善右衛門
山村三右衛門
水尾源助
池田藤兵衛
(榎並屋)
  次郎左衛門
(臺師)
  仁兵衛
岩井刑部左衛門
  弥三兵衛
葉石七右衛門
平岡市郎兵衛

(※「福岡啓藩志」では『附録下』の名称あり)
小河藤左衛門常直
粟野與兵衛
正木長右衛門
今泉權助
疋田權内宗基
(※一行アキ)
後藤又兵衛基次
後藤左門基義
斎藤五右衛門實利
松浦八左衛門之祐
下野九兵衛
大久保猪之助
浅野彦五郎
浅野新九郎
明石彦右衛門
酒井六兵衛
林田左門
若槻傳左衛門家頼
小河藤左衛門常弘
村山市郎兵衛
(※一行アキ)
知福寺空與守攸

福岡藩慶長期分限帳の成立年代について

 これは2018年12月に私が福岡地方史研究会で発表したものに、それからの知見を付け加えて再構成をしたものです。福岡県の近世初期研究の一助になれば幸いです。

 

1. 福岡藩の慶長期分限帳とは?
 分限帳といえば「江戸時代に大名家家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面」(Wikipedia)であるが、福岡に居城を構えた黒田家にも当然ながら分限帳は存在し、『黒田三藩分限帳』(著・福岡地方史談話会)『福岡藩分限帳集成』(福岡地方史研究会編 海鳥社)のように活字化されたものもあり、福岡県近世史の研究に大いに役立っている。
 慶長期は慶長元年から慶長20年、つまりグレゴリオ暦でいう1596年から1615年までの期間を指す。慶長5年(1600年)9月15日に天下分け目の「関ケ原の戦い」が起こったため、歴史の大きな転換点ともなった時期でもある。
 福岡藩の慶長期分限帳だが、『黒田三藩分限帳』に「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」と「慶長年中士中寺社知行書附」の2本、『福岡藩分限帳集成』に「慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳」の1本、合計3本が活字化されている。活字化されてはいないが著名なものとしては「慶長六年筑前國中諸役人知行高目録」(原本は筑紫女学園蔵。福岡県立図書館の郷土資料室に紙焼版あり)がある。今回は主にこの4本の福岡藩慶長期分限帳について考察する。
 ただし、それぞれの正式名称が長いため、今回の考察では『黒田三藩分限帳』収録の「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」を「三藩分限帳A」、『黒田三藩分限帳』収録の「慶長年中士中寺社知行書附」を「三藩分限帳B」、『福岡藩分限帳集成』収録の「慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳」を「集成分限帳」、筑紫女学園蔵の「慶長六年筑前國中諸役人知行高目録」を「筑女分限帳」と呼称する。

 

2.福岡藩慶長期分限帳は題名にある年号と実際の成立年が違う

「三藩分限帳A」の書題には「慶長七年・九年」、「集成分限帳」には「慶長六年」、「筑女分限帳」にも「慶長六年」という具体的な年号が入っている。そのため福岡藩慶長期分限帳を引用した論文で、その年に作られた分限帳だと判断して論じている例がかなりある。ただ、それは明らかな間違いである。
 これらの4本の分限帳にはすべて「萬(万)徳様衆」の言葉が書かれている。「萬徳様」は福岡藩2代藩主・黒田忠之の幼名で、「萬徳様衆」は黒田忠之の守役を命じられた福岡藩の武士たちのことである(福西道達・伊丹九郎右衛門・林五助・井上傳次の四名が萬徳様衆に任じられている)。
 黒田忠之が生まれたのは慶長7年11月9日なので、これらの分限帳はそれ以降に書かれたものであることだけは間違いない。もう少し厳密に言うと、生まれた子供の名前は御七夜で披露されるものなので、黒田忠之に「萬徳」と名前が付けられたのは慶長7年11月16日となる。おそらく「萬徳様衆」が決められたのも同日かそれ以降の数日間の間だろう。従ってこれら4本の分限帳の成立は慶長7年11月16日以降と判断してよい。
 一方、これらの分限帳の成立の下限だが、4本とも「後藤又兵衛」の名前がある。後藤又兵衛は黒田二十四騎の一人にも数えられる黒田家の重臣だが、初代藩主の黒田長政と折り合いが悪くなり、慶長11年に黒田家を退去した。後藤又兵衛が黒田家を退去した具体的な月日は不明とされている。だが、福岡市の常念寺に後藤又兵衛が黒田家を退去する時に空与上人に宛てた書状が残っているという(『福岡城天守閣と光雲神社』梓書院 著・荻野忠行)。その書状には慶長11年6月14日の日付があり、後藤又兵衛が黒田家を退去したのはその頃だと思われる。これらの分限帳に後藤又兵衛の名前があるということは、これらの分限帳は後藤又兵衛が黒田家を去る慶長11年6月14日以前に書かれたものと言うことになる。
 よって4本の分限帳の成立年代は、慶長7年11月16日から慶長11年6月14日の間だと考えられる。福岡藩慶長期分限帳を研究で引用される時はこのことを認識しておいていただければと思う。
 今回の記事はこの成立年代の幅をもう少し狭められないかと考察したものである。

 

3.「三藩分限帳A」は他の分限帳に先行するものか

 「三藩分限帳A」と、他の3本の分限帳(「三藩分限帳B」・「集成分限帳」・「筑女分限帳」)では大きな違いがある。それは一部の武士の石高と船手衆(福岡藩の水軍)の組織である。
 石高の違いに関しては『黒田三藩分限帳』に長野誠明治15年時の考察が載っている。長野誠福岡藩の学者だった人物でもあり、福岡藩の各家の文書の閲覧をすることができた立場の人間である。
 長野誠によると、慶長7年12月23日に福岡藩の一部の武士に対して大幅な加増が行われている(例を挙げると、家老の井上九郎右衛門が一万五千石から一万七千石に加増されている)。「三藩分限帳A」は慶長7年12月23日以前の禄高が記された武士とそれ以降の禄高が記された武士が混在しているようで、長野誠は慶長7年12月23日以前の禄高を記したものに12月23日以降の禄高を「書改しなるへし」と判断しているようだ。
 私は「萬徳」の名前が付けられた慶長7年11月16日から加増のあった慶長7年12月23日まで一か月ほどしか時間がないため、「三藩分限帳Aの編集グループは慶長7年11月16日の段階での禄高で調査記録を進めていたが、調査の途中の慶長7年12月23日に加増が行われたため、それ以降の調査では12月23日以降の禄高を記録した」と考えている。つまり「編集の途中で大幅な加増が行われたため新旧の禄高が混在し、そのまま訂正することなく一冊の分限帳としてまとめてしまった」というのが私の考えだ。
 さすがに慶長7年12月23日の直後に完成することができたとは思えないので、「三藩分限帳A」はやはり慶長8年に入ってからの完成ではないだろうか。しかも古い禄高を修正していないところを見ると急いでまとめる必要があったと思われ、「三藩分限帳A」は慶長8年初頭頃の成立ではないかと推測する。
 だが、これでは正規の行政文書としては機能しない。たとえば禄高に応じて軍役を決める場合でも、この分限帳に基づけば当然不公平なものになってしまう。従って「三藩分限帳A」は実際には使用されなかったプロトタイプと呼ぶべきものだろう。ただ、「三藩分限帳A」が廃棄されずに写本が残ったことを考えると、黒田家が福岡の地に封じられてから初めて作られた「根本名簿」的なものであったことは推測できる。

 

4.船手衆組織の改編

 「三藩分限帳A」以外の3本の分限帳は慶長7年12月23日以降の石高を記載しており、「三藩分限帳B」「集成分限帳」「筑女分限帳」は「三藩分限帳A」より後の成立である。
 「三藩分限帳A」と3本の分限帳では石高の他に、前にも書いたように船手衆の組織改変がなされている。具体的には「三藩分限帳A」では船手衆のトップが2750石の三宅山太夫(若狭。黒田二十四騎の一人で若松城主)だったのに対し、3本の分限帳では馬杉喜右衛門が1000石から3490石に加増されて船手衆のトップになっている。それだけでなく、「三藩分限帳A」では船手衆の名前が35名載せられているが、「三藩分限帳B」では14名、「集成分限帳」「筑女分限帳」では13名に減少している(「三藩分限帳B」では能島衆の庄林七兵衛が一人多い)。
 分限帳から名前が消えた船手衆の石高を合計するとほぼ馬杉喜右衛門の増えた石高に相当することから、馬杉喜右衛門が単独で大幅な加増がされたわけではなく、「三藩分限帳A」にだけ名前の見える船手衆が馬杉喜右衛門の支配下に入ったと見るべきだろう。馬杉喜右衛門は「芦屋押」であることから、遠賀川を使って米を芦屋まで運ぶ水運業に人手が必要となり、配置転換が行われたのかもしれない。
 従って「三藩分限帳B」「集成分限帳」「筑女分限帳」は船手衆の組織改編が行われた後の成立であることは確かだが、その組織改編がいつ行われたのかは不明である(少なくとも『黒田家譜』にそのことを示す記述はない)。


5. 3本の分限帳は慶長8年6月の成立か

 船手衆の組織改編の時期がわからない以上、他に3本の分限帳の成立時期を決定する資料はないだろうか。実は「黒田家譜早鑑」という書物に成立年代のヒントがあった。
 「黒田家譜早鑑」は福岡藩無足組の武士・安見鼎臣弼の手になるもので、その中に「慶長八年六月 宗勝寺弐拾石六合御寺納」(日付は書かれていない)とある。宗勝寺は福岡市東区にあり、小早川隆景重臣である浦(乃美)宗勝が創建した寺院だ。境内には浦宗勝夫妻の墓が残されている。4本の慶長期分限帳の寺社禄高の部分にも「弐拾石 宗勝寺」とあり、「黒田家譜早鑑」の記述が正しいとすれば慶長期分限帳の成立年代の上限は「慶長8年6月」ということになる。
 なお「三藩分限帳A」にも「弐拾石 宗勝寺」とあり、それだと「三藩分限帳A」の成立を慶長8年初頭とした私の説は成り立たないことになってしまう。ただ、慶長期分限帳の社寺の部分は石高の多い順から少ない順へと社寺名が並べられているが、「三藩分限帳A」では「五石 武蔵寺」の次の最後の部分に「弐拾石 宗勝寺」とあるので、宗勝寺に関しては追記と見られる。「三藩分限帳A」は慶長8年初頭に作られ、慶長8年6月に宗勝寺の項目が追記されたと考えるべきだろう。

 では3本の分限帳の成立下限年代はいつなのだろうか。「元和年間の分限帳に名前があって慶長期分限帳に名前のない人物」が手がかりになると私は考えた。
 私は『福岡藩分限帳集成』に収録されている「元和分限帳」の一部次郎左衛門に注目した。一部次郎左衛門は「元和分限帳」よると吉田宮内組に所属し三百石の禄高を得ている。一部次郎左衛門の名前の横に「慶長八年六月廿日御判物アリ」との書き込みがある。一部次郎左衛門は慶長8年6月20日に三百石の禄を賜り、その知行御判物が書き込みをされた時期まで存在したことは確かだろう。一部次郎左衛門は慶長期分限帳には見られない名前で、従って慶長期分限帳は慶長8年6月20日より前に成立したことになる。
 だが、面倒なことに慶長期分限帳の船手衆に「一双次郎左衛門」という人物がおり、「一部次郎左衛門」と同一人物ではないかと思われている節がある。例を挙げると「集成分限帳」では一部次郎左衛門の横に「部ナリ」と書き込みがある。その書き込みは「集成分限帳」を自著の『致致雑抄』に収録した大塚一滴(江戸中期から後期にかけての福岡藩士。筑前二天一流の達人)によるものだと思われるが、少なくとも大塚一滴は「一双次郎左衛門は一部次郎左衛門の間違いだ」と考えているようだ。
 私自身も直接的な証拠はないものの様々な状況証拠から一双次郎左衛門は、生月島で平戸の松浦家に仕えていたがキリシタン弾圧が始まると松浦家を退去した一部正治(洗礼名・バルタザル)の変名ではないかと考えている。
 「一双次郎左衛門」と「一部次郎左衛門」が同一人物だとしたら「慶長期分限帳は慶長8年6月20日より前に成立した」説は成り立たないことになる。
 だが江戸時代初期までに黒田家に仕えた武士の名簿である『播州豊前筑前筮仕諸臣名簿』によれば、「一双次郎右衛門」の30人ほど後に「一部次郎左衛門時平」の名前があり、『播州豊前筑前筮仕諸臣名簿』を見る限りでは一双次郎右衛門と一部次郎左衛門は別人のようだ。『黒田三藩分限帳』収録の「元和人数付(二)」にも「一部次郎兵衛(次郎左衛門の誤りか)」の横に「時平 肥前人」とあり、一部次郎左衛門の諱は「時平」で「正治」ではない。つまり一部次郎左衛門は慶長期分限帳には載っていない人物で、やはり慶長期分限帳は一部次郎左衛門が三百石を得た慶長8年6月20日より前の成立ということになるだろう。

 

6. 結論と年代表記への推測

 以上考察から福岡藩の慶長期分限帳の成立年代をまとめてみる。
・「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」(「三藩分限帳A」)の原本は慶長8年初頭の成立。ただし、慶長7年12月23日以前と以後の禄高が混在しており、正式な分限帳としては使われていないと見られる。ただし、「根本名簿」としての意味合いはあり、破棄されずに残されたものであろう。
・「慶長年中士中寺社知行書附」(「三藩分限帳B」)、「慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳」(「集成分限帳」)、「慶長六年筑前國中諸役人知行高目録」(「筑女分限帳」)の3本の分限帳の原本は、慶長8年6月の20日より前の成立。この系統が正式な福岡藩の慶長期分限帳として使われたと考えられる。

 ただ、プロトタイプともいうべき「三藩分限帳A」の成立が慶長8年初頭で、他の3本の分限帳の成立が慶長8年6月であるならば結構時間がかかっているように思われる。その具体的な理由は不明だが「三藩分限帳A」に宗勝寺の追記があることからすれば宗勝寺に禄を与える決定を待って分限帳を完成させたことが原因の一つと考えられよう。

 なお、「集成分限帳」と「筑女分限帳」の書名に慶長六年の年号が入れられた理由だが、あるいは慶長8年6月に完成したことが原因かもしれない。原本のどこかに「慶長八年六月」と記されていたが、破損により「慶」「六」の文字だけ残され、それを見た写本の作者が「慶長六年の分限帳だ」と判断して書名を作成してしまった。これは完全に私の推測だが、意外とそんな理由で「慶長六年」の年号が入ったのかもしれない。

節分恵方巻の話

初めてはてなブログに書いてみます。「節分の恵方巻」は以前のサイトに書いたものを、修正して再録したものです。

 

☆節分の恵方巻
 一月の終わりになると、スーパーなどで盛んに『節分の恵方巻』をPRしている。ご存知の通り、節分の日に切っていない長いままの太巻きをある方向に向かって食べるといいことがあるという風習である。
 私はこの風習について、かなりの情報を持っている部類に入るだろう。私の知っている情報を公開し、また私なりの考察を加え、世間の人々の役に少しでも立てばと思う次第である。

☆それは島根で出会った
 「節分の日に太巻きを食う習慣」というものを聞いたのは、私が島根大学に通っていた時代の節分の日だった。大阪出身の同じ研究室の友人が「大阪ではそういう風習がある。ぜひ、節分の日にやってみないか」と誘ってきたのである。
 当時の私はそれなりに民俗学に詳しいと自負していたが、この風習のことは全く聞いたことがなかった。おそらく大阪ローカルの風習だろうとは思ったが、なにやら面白そうなので研究室のそこら辺にいた人間を誘って「太巻きかじり会」を行うことになった。
 場所は大阪の友人の下宿部屋で、確か男ばかり四人ほどが集まっていたように思う。スーパーかどこかで切っていない太巻きを手に入れ、大阪の友人の話通りに太巻きを食うことにした。大阪の友人の話によると「恵方を向いて一言も喋らずに太巻きを食い尽くさねばならない」ということらしい。我々はその言葉に従い、四人が同じ方角を向いて太巻きを食い始めたのだが、どういうわけか笑いが漏れだした。
 想像してほしい。一つの部屋の中で男四人が同じ方を向いたまま無言でひたすら太巻きを食っているのである。怪しい、というよりはっきり言ってマヌケだーっ! 我々は無事に喋ることもなく太巻きを食べ終えたが、あれは私の一生の中でも『記憶に残るマヌケな光景』だったような気がする。

☆「恵方巻(節分まるかぶり)」とは一体?
 ここで恵方巻について私が知っていることを述べてみよう。「恵方巻(以前は節分まるかぶり寿司と呼んでいた)」とは、節分の日に『恵方』という方角を向いて長いままの太巻きを無言で食べ、厄払いと幸せを願う、大阪で始まったという風習である。
 私は江戸時代末期から明治にかけて大阪・船場で始まったという話を聞いたことがあるが、詳しいことは不明である(確実な時期は大正時代かららしい)。ただ、しばらく関西圏とその周辺にのみ留まっていた風習なのは確かであろう。
 「無言のまま太巻きを食う」という行動の意味についても詳しいことは不明である。ただし、私は「太巻きは鬼の鉄棒を意味し、鬼の鉄棒を食べてしまうことによって節分の厄払いとする」という話を聞いたことがある。あるいは大阪の人たちのシャレ心で始まった行事なのかもしれない。
 ちなみに「無言」の意味だが、神社の「無言参り」などに見られるように無言という行動に『神事』の意味を持たせたのだろう。ところで、仏教の陀羅尼(サンスクリットによる呪文)の中には「魔が入り込まないように一息で読んでしまわねばならない」というものが存在する。あるいは「鬼を調伏するためには鬼の鉄棒を意味する太巻きを一息で食わねばならない」という思想があり、それが物理的に不可能であるため代わりに「太巻きを食べ終わるまで喋らない」ということになったとも考えられる。

☆『恵方』とは?
 さて、ここで恵方について述べてみよう。恵方とはその年のラッキーな方角で、幸運を司ると言われる歳徳神が存在すると言われる。歳徳神は元々はその年の稲の実りと幸せを『常世の国』から人間にもたらす歳神だったが、陰陽道などの影響により年毎にある一定の方向に存在すると考えられるようになった。(干支、特に十干によって歳徳神の居場所が決定する。) 歳徳神のいる恵方は「明きの方」といわれ、この方角に向かって何かをするとすべてうまくいくと考えられた。昔の人々にとって『恵方』は非常に親しいものであり、「厄払いのため恵方に向かって太巻きを食べる」という大阪の人の発想もごく普通のことだっただろう。

☆なぜ太巻き寿司なのか?
 「厄払いのため太巻きを鬼の鉄棒に見立てた」という説を紹介したが、私は「寿司」であることに意味があったのではないかと考えている。旧暦の正月は節分および翌日の立春の前後にやってくる。そこで昔は立春を「神様の年越し」といい、その前日の節分は大晦日と同じ意味合いを持っていた。
 江戸では大晦日に今と同じく年越しそばを食べる風習があったが、その他の地方では「年取りの膳」と称して大晦日に豪勢な食事を取ることが多かった。その中には北陸のぶり寿司のように寿司を食べるところもあった。
 今でも寿司が特別の日に食べられる料理の意味合いがあるように、大阪の人たちは節分の日に寿司を食べることにより特別な意味をもたせようとしたのかもしれない。
 インターネットで検索したところ、関西の人の中には「太巻きを切らないのは、年越し蕎麦と同じく長いことに意味がある」と考えている人もいるようだ。
 おそらく私は、太陽暦が施行されて新暦の正月と節分が一ヶ月以上も遠くなった時期に、大阪の人たちが節分と大晦日が近かった昔を懐かしみ、また関東の年越し蕎麦に対抗して作り上げたものが「節分の恵方巻」ではないかと密かに考えている。もっともこの考えが正しいのかどうかは不明だが……

☆関西圏外への進出
 では、節分の恵方巻が関西圏以外、特に関東圏に進出した時期と契機は何だったのだろう? これに対して私は明確に答えることができる。それは「1990年代半ば、海苔の業者のキャンペーンにより一気に東京に広まった」ということだ。
 以前、私がバイトしていた所は太巻き細巻きと言った商品も売っていた。ある年(具体的な年度、失念)の一月、海苔の業者からお願いが書かれたチラシとポスターが店に回ってきた。それこそが、大阪で行われている節分のまるかぶり寿司(恵方巻)を東京でも広めようという、海苔業者のキャンペーンのお願いのチラシとポスターだったのである。
 その当時、そんな風習があることを知っていたのはバイト先の店の中で私ただ一人だった。私は「関東で流行るのかねー」と思っていたが、ポスターは店先に貼られた。確か「幸運の丸かぶり」とかいう文字と可愛い鬼のイラストが描かれていたように記憶する。ただ、その年の節分の太巻きの売り上げは大したことはなかった。
 しかし、どういうわけかそれから二年ほど経つとスーパーでも「節分の太巻き」が売られるようになり、気がついたら一月下旬から二月の節分にかけて普通の光景になっていたのである。

☆なぜ節分の恵方巻は定着したのか?
 いくら業者が頑張ってキャンペーンをやったところで、「サンジョルディの日」のようにどうしても定着しなかったものはある。では、どうして「節分の恵方巻」は定着したのだろう? それは豆まき行事の衰退と関連があるように思われる。
 昔の節分はどこの家でも「鬼は外ー、福は内ー」という声が聞こえていたものだ。だが、今では豆まきは有名な寺社の行事になってしまった。
 その理由だが、新正月と節分が一ヶ月も離れてから百年以上の月日が経ってしまい、節分が「季節の移り変わる特別の日」という感触が薄れてしまったことが一つの原因ではないだろうか。また豆まきは大声を出すことによって、近所との関係を持ってしまう行事でもある。近所づきあいの薄れた今となっては豆まきは遠慮される行事になりつつあるのかもしれない。
 節分の恵方巻は豆まきの衰退を補う形で、関東圏に入り込んだのではないだろうか。豆まきをしなくなっても人々が幸福を求める気持ちに代わりはない。部屋の中で静かに行うことのできる恵方巻は格好の招福行事だったのだ。こうして恵方巻は関東にも受け入れられていった。知り合いに話を聞いた結果、恵方巻の風習は、2002年には北九州地区に、2003年には北海道に上陸したと見られ、これでほぼ全国に広まったようである。(四国には知り合いがいなかったため、四国に広まった時期は不明。おそらく九州と同じくらいの2002年くらいか。)

 以上、恵方巻に関する私の知っている情報と考察を述べてみた。恵方巻を食べる時に少しでも思い出してもらえれば幸いである。